ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2010.10.27 (水)
1915年4月25日、アンザック湾について

『ガリポリ』pp.188-191において、ケマルの英雄的な戦いぶりが書かれていますが、トルコ語ソースも使っているEdward Erickson氏の本だと少し内容が異なっています。

0500 連合軍アンザック湾上陸
0530 ケマル、第19師団に警報を発し、偵察隊を出す
0550 第9師団予備の第27連隊(第2大隊はギャバ・テペ守備)が上陸地点へと出発
0800 ケマル、第57連隊を率いて上陸地点へと出発
0825 第9師団長、第27連隊にケマルの指揮下で協同して行動するよう指示
0900 第27連隊、上陸地点付近に到着
0940 ケマルの第57連隊到着
1230-1300 砲兵支援を受けつつオスマン軍散兵は前進を開始。第57連隊は1個大隊を予備として控え、4個大隊で攻撃に出てオーストラリア軍の8個連隊をくぎ付けにする
(Ottoman Army Effectiveness in World War I pp.33-35)


上記はmixiに書いたもの。
やっぱり協同して戦おうとすると時間がかかるのかな。



オーストラリア軽騎兵研究センター

セフィク中佐は回想録出してるのか。



エリクソン博士曰く、初動でオスマン軍が有利になった理由は以下の通り。

・ドクトリンが高い度合いで標準化されていたこと
・報告システム
・火力支援協同



土第27、57連隊の攻撃はアンザック兵を海に追い落とすことはできなかったが、橋頭堡に閉じ込めることはできた。

午後3時30分、サイプ(Saip)大尉の第77連隊の2コ大隊が左翼に展開中であった(残りの1コ大隊はべつの海岸守備)。ケマルは再度反撃を決断、第27、5両連隊の5コ大隊をもって攻撃を敢行した。1時間後、72連隊の3コ大隊が右翼に配置につき攻撃準備完了した。いまやケマルの手元には10コ大隊があった。対する連合軍は18コ連隊である。

ケマルにとって幸運なことに、連合軍兵はあまりよい陣地に展開していなかった。師団および軍団レベルのリーダーシップの欠如の結果である。イギリスは平時に戦争準備を怠っており、開戦時その軍隊の少数だけが申し分ないといえる程度だった。ガリポリには2線級の将兵が投入されていた。無能な上級将校、経験のうすい前線将校、やる気だけがとりえの兵と最悪の人選だった。

ケマルが攻撃にいそしんでいる間、エサト・パシャの第3軍団野戦司令部(マルテペ)では、即応予備のすべてが敵軍上陸の牽制のために投入され、指揮系統を整理することの必要性が明白となった。ケマル(第19師団長)は第9師団担当地区で戦っていたのである。エサトはケマルをアリブルヌ(Ari Burnu)前線指揮官に任命し、第27連隊を新しく配下に加えた。これでAri Burnuでアンザックと対するムスタファ・ケマル、カペヘレス(Cape Helles)で英第29師団に対するハリル・サミと明確に担当が分かれることとなった。

ケマルはさらに夜間攻撃を敢行した。攻撃は各大隊レベルで行われ協調性を欠いたものだったが、アンザック兵に圧力を与え続けた。一日の間に英軍は2万4千のうち、2万を上陸できていた。しかし砲兵支援のもとで密集歩兵突撃を敢行し続ける敵兵に根負けした。

バードウッド将軍はアンザック兵にその場にとどまるよう命令し、こういった、

「掘って、掘って、堀まくれ」

ついに英軍は前進をあきらめたのだ。これは長い長い半年以上にもおよぶ塹壕戦の始まりとなった。



かなり乱暴に書いた。やっぱり英公刊戦史が必要な気がした。『1915年 ガリポリに於ける上陸作戦』は陸上戦闘というより上陸作戦に着目しているので。



「海岸よりただちに峻岨なる断崖聳立するアンザック峡谷においては、他の何種砲兵たるを問わずその行動は大いに困難なり。しかるに当時上陸援護隊たるオーストラリア部隊が非常の苦戦に陥れるとき、山砲部隊があたかも第1線に到着し、歩兵に有力なる支援を与えたるは、きわめて重要なる意義を有したるものというべし」
『1915年 ガリポリに於ける上陸作戦』p.102

砲兵支援の重要性。

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