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ミリタリー | 趣味・実用 | 楠公戦史 2010.09.06 (月)
○湊川戦前の建策
・湊川戦前、楠木正成はある建策を行った。
・足利軍は大軍であり、我が方は不利である。
・ゆえにここは決戦を避けて足利軍を京都に入らしめ、街道を遮断して敵を包囲し食料を枯渇させ、もって四方より攻撃してこれを撃滅せんと。
・しかし政策決定者(朝廷)の答えは、否であった。
・ここにおいて「この上はさのみ異議を申すにおよばす、さては討ち死につかまつれとの勅定なれ」と正成は兵庫下向を決意した。

○桜井の宿の別れ
・正成は軍を招集するも負け戦を予感して集まりが悪く、7百しか来なかった。
・手勢7百をもって兵庫下向途中、正成は桜井の宿にて嫡子正行と別れた。
・曰く、「獅子は子を産んで3日を経るとき、万仞の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教えざるになかより身を翻して、死することを得ずといえり」。正成戦死するも、臥薪嘗胆、朝敵に屈することなかれと述べて別れた。

○状況、地形

○態勢
・楠木正成、兵庫に着陣する。
・5月24日、足利水軍は播磨の大蔵谷に進出し、その先鋒は須磨沖にある。直義率いる陸上軍は、先鋒が一の谷西口に位置し、主力は大蔵谷より猪名見野にあった。
・一方、新田軍は脇屋義介5千騎が経島、大館氏明以下3千騎が灯炉堂の南浜、楠木隊7百は湊川西の会下山、義貞本陣は和田御崎にあった。
(『名将に学ぶ世界の戦術』pp.262-263,では少し異なる)

001.jpg
『太平記合戦譚の研究』p.159より


○作戦計画
・もとより官軍の目的は足利追討にあったが、兵力差が著しく攻撃が行えなかった。
・新田義貞もこれを承知し、できればもっと後方に下がりたいところであったが、悪評を恐れて兵庫にとどまり、宮方水軍を期待しつつ足利軍の阻止を考えた。
・正成は官軍に勝機なしと考え、その目的を「義貞を京都まで無事落ち延びさせること」と定めた。これをもって正成は義貞と協議し、山手の会下山に布陣した。
・約5万もの兵力を有する優勢な足利軍は敵主力を撃滅せんと、地上軍をもって敵を拘束し、水軍をもって敵軍後方に進出し包囲しよう計画した。その陸上軍は大手(中央隊)、山手(左翼)、浜手(右翼)の3部隊に分かれて進撃することとなった。
(やはり『名将に学ぶ世界の戦術』pp.262-263,では少し異なる)

○経過
・25日、細川水軍の一部が経島付近に上陸するも、脇屋義助の兵5百が水際でこれを撃滅。足利軍2百が屍をさらした。
・続いて陸上軍の進撃とあわせて、足利水軍は新田軍の背後へ回り込むよう機動したため、海岸側の新田軍は包囲を恐れて東へと後退した。
・楠木隊と新田軍の隙間でがら空きとなった和田岬に足利水軍が上陸、楠木隊と新田勢を分断した。
・上陸軍の圧力により新田軍はさらに後退し始める。
・このとき会下山にある正成は弟の正季に問う、「敵は我々の前後を遮断し、味方とはぐれてしまった。今が覚悟するときだ。いさ、前面の敵を蹴散らし、しかる後背面の敵と戦わん」。正季答えて、「私もそう思います!」。
・楠木隊7百は猛然と攻撃移転した。戦う前から負けると分かっていた戦にわざわざついてきたような死兵であるから、突如とした突撃に足利軍中央隊は大混乱に陥った。正成と正季は好敵と思えば組み打って馬から落とし、相手に不足と思えば一太刀浴びせて蹴散らした。その猛烈なること、正成と正季が7度出会い、7度別れたほどであったという。

002.jpg
『楠公の戦術上及精神上の教訓』p.143より

・足利直義もあやうく討ち取られてるところであったが、間一髪逃れた。苦戦する中央隊のため、足利軍は新田軍への追撃を弱めて楠木隊を包囲していった。戦闘すること約6時間、ついに楠木隊は70余騎へと数を減らし、死に場所を求めて湊川の北にあった民家へと入った。
・正成は正季に言う、「そもそも人間は最後の一念によって来世に極楽へ行けるか地獄へと堕ちるかが決まるという。9つの世界のなかで、お前が行きたいと思うのはどこか。すぐにそこへ行こうではないか」。正季は笑って答え、「それでは7度まで生まれ変わってもやはり同じ人間に生まれ、朝敵を滅ぼしてやりたいです」。
・正成は破顔し、「罪深く救われぬ考えだが、私もそう思う。さあ、それでは同じように生まれ変わり、願いを果たそう」。そう言って兄弟は刺し違えた。さらにその場にいた者たちも切腹して果てた。
・その後京都へと進撃した足利軍に対し、名和長年と千種忠顕は抗するもかなわず戦死する。これによって、後醍醐天皇の栄光を飾った「三木一草」はことごとく討ち死にして果てたのであった。

○評
「私は5回現地に就いて湊川の戦を研究した。初めの間はどうしても戦理のみを考えていたので不可解に堪えなかったが、一朝、これは理屈の戦ではない、義を千歳に留むるための戦であるというところに気付いてから、釈然としてこの問題を解くことが出来、あたかも難しい数学の問題を解き得たような感がしたのである」
『楠公の戦術上及精神上の教訓』p.147

「『このたびは、君の戦は必ず敗れるでしょう。人の心から推測するに、去る元弘の初め、ひそかに勅命を受けて急に金剛山の城に籠もった時、自身一個の計らいのようにしながら国中を頼んで功をなすことができました。その際、皆が志を君に通じ奉っていたためであると知りました。ところがこのたびは、正成が和泉・河内両国の守護として勅命をこうむり軍勢を催したのに、親類一族ですら難渋している様子です。このようなありさまですから、国人土民がどう思っているかもわかるというものです。天下が君に背いていることは明らかです。これでは正成が生き存えても無益です。まっさきに命を落とすことにいたしましょう』
最後の振舞いがこの言葉に符合していたので、『どんな賢才武略の勇士であっても、このようなことを申す者はめったにいないだろう』と、敵も味方も正成のことを惜しまない者はいなかった」
『梅松論』

「元弘よりこのかた、恐れ多くも後醍醐天皇の御信頼を受けて、忠義を尽くし戦功を誇るものは何千万いたであろうか。しかし、尊氏による乱が、思いがけなく起こって以後、仁を理解しない者は朝廷の恩を捨てて敵につき、勇のない者は卑怯にも死から逃れようとして刑罰にあい、知恵のない者は時の移り変わりを理解できず道理にはずれた振る舞いばかりすることが多いなかにあって、智・仁・勇の三徳を兼ね備えて、人としての正しい死に方を守った人は、、古から今に至るまで、この正成ほど立派な人はいなかった」
『太平記 巻第16』

正成がどうして必敗の戦場にあえて赴いたのか、今となっては誰にも分からない。ヤケクソになっていたとか、裏切れるような状況になかったとか、死をもって諫めたとか諸論ある。ただ事実が示すのは、裏切りが常であった南北朝戦乱において、主をたがえることなく死んだことである。


○参考
家村和幸『図解雑学 名将に学ぶ世界の戦術』ナツメ社、2009年
長谷川端校注・訳『太平記』小学館、1996年
林弥三吉『楠公の戦術上及精神上の教訓』兵書出版社、1943年第10版(初版1937年)
安井久善『太平記合戦譚の研究』桜楓社、1981年
梅松論


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