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ドイツ突撃部隊 2009.03.10 (火)
ドイツ最高統帥部(独:Obershe Heeresle, 英:the supreme command of the first army)はドイツ第8軍団に西部戦線で陣地を突破するにふさわしい新兵器と新戦術を創造する新しい部隊の編成を命じた。戦前より攻囲戦の訓練をしていたのは工兵であり、新部隊も工兵が中心となってやることとなった。この最初の突撃隊Sturmabteillungの指揮官となったのは第18工兵大隊のカスロウ少佐である。指揮官の名をとってカスロウ突撃隊Sturmabteillung Kaslowとも言われる。

塹壕突破するのに一番身近な問題は機関銃だった。これを解決するためクルップ社はSturmkanoneという3.7cm軽砲を開発した。これなら前線での簡単に機動できる。またカスロウ突撃隊にはスチームヘルメットやボディアーマーも支給された。

3ヶ月の訓練の後部隊は前線に送られ、さまざまな第一線部隊に分属された。実際に戦ってみるとクルップ砲は扱いにくい上に敵に攻撃の標的とされやすかった。また、一連の小攻撃任務に就いた突撃隊員は死傷率30%にも及んだ。

1915年8月カスロウは解任され、近衛歩兵大隊から若干37歳のウィリー・エルンスト・ローワ大尉がこれに代わることとなった。ローワの精力的な指導の下、敵塹壕システムを突破する新しい戦術が構築されていった。クルップ砲は鹵獲したロシア製野砲の砲身を少し切り取ったものに代えられ、突撃隊員のユニフォームと個人装備は彼らの新しい方法に沿ったものが導入された。

1915年秋、Vosgesでの作戦はローワのアイディアの正しさを証明した。12月、第12後備師団からの基幹要員を訓練する。後備師団兵士は戦前からの散兵線に各歩兵中隊を一列に並べるようなものではなく、小隊、分隊単位でどうやって戦うかを学んだ。フランス軍陣地の原寸大模型を参考に、敵拠点の描かれた5000分の1スケールの地図の使い方を学んだ。訓練を受けた下士官は自分自身がリーダーシップを発揮しなければならないことを感じていた。ローワ突撃隊は素晴らしい訓練部隊だった。

1916年2月にはローワ突撃隊Sturmabteillung Rohrはヴェルダンに送られた。4月ローワ突撃隊は大隊へと改編される。そして5月最高統帥部は西部戦線のすべての軍は新技術を学ぶために士官2人と下士官4人をローワ突撃大隊Sturmbataillon Rohrに送るよう命令した。ローワ突撃大隊は実戦部隊というよりは訓練部隊となっていったのである。

1916年4月、4コ猟兵大隊がローワ突撃大隊をモデルとした突撃隊に改編される。2ヶ月間の訓練コースがBeauvilleで行われた。3コ猟兵大隊はプログラムから抜けて代わりにルーマニア戦線に送られたが、1916年7 月にブランデンブルクBrandenburger第3猟兵大隊は第3突撃猟兵大隊となった。

この新しい大隊は、
突撃中隊x4
機関銃中隊
塹壕迫撃砲中隊(迫撃砲x8)
歩兵砲中隊(ロシアで鹵獲された軽野砲x6)
火炎放射器小隊(Klef M1916 x6)
から成る。

1916年10月23日、ルーデンドルフは西部戦線のすべての軍(軍集団→軍→軍団という意味の軍)に対して突撃大隊を編成するよう命令した。12月始めまでにドイツ第1軍、第2軍、第5軍において編成され、他の14コ軍ではその月に作られた。

新しい突撃部隊Sturmbataillonは元々師団内で存在していた突撃隊と合同して作られた。師団内突撃隊とは何か。ローワ突撃大隊は高級司令部によって編成されていたが、新しい戦術のアイディアの創出はそこからだけではない。1915年半ばからドイツ軍連隊では兵隊内で強襲用の小部隊を作り出していた。この先発された部隊は分隊で小隊であるいは中隊で行動する。部隊名はいろいろあった。最も多いのが突撃隊Sturmtruppで、ほかには猟兵コマンド Jagdkommandoとか襲撃隊Pstrouillentruppなどがあった。

1916年12月までに30コ師団以上が師団内に突撃隊を有していた。いくつかの独立軍団、後備(Landwehr)師団、海軍師団でさえも自発的に突撃隊を作っていた。これらはオフィシャルなローワ突撃大隊とは違い、師団独自に編成されたものである。

これは戦前からのドイツ軍の訓練方法とドクトリンに起因する。他国の軍隊はすべて高級司令部が訓練方法を策定していたが、22の軍団区を持つ帝政ドイツ軍では地方分権的だった。1880年代後半ドイツ陸軍のオブサーバーをしていたイギリス士官Ellisonはドイツ軍の訓練方法について、「大尉は実際的に教範に縛られない。そして彼の考えに合致することを行うのを邪魔する権利は誰にもない。そのような行動が教範に存在する精神に全く反しているか、明白にただ不十分な結果を与えるものであるかを除いては。」と書いている。この伝統的精神は第一次大戦時のドイツ軍教範の中でも繰り返し述べられている。

この戦術的独立性の伝統はドイツ軍師団でも受け継がれている。他国の参謀幕僚は西部戦線での戦術的問題を解決するのに平等に忙しく働いていたが、多くは前線での戦闘で小部隊運用を試すのにドイツと比べて不利があった。反対に自分独自の戦術に対する干渉が少ないドイツ軍連隊士官は新しい方法を試すのにより多くの自由があった。結果として1915年の夏までに西部戦線のドイツ軍中で突撃隊が生じていた。

ローワ突撃大隊Strumbataillon Rohrは最も有名であり突撃部隊の公式認定の役に立ったが、多くの突撃隊の同時発生は個々の自発性を奨励したドイツ軍事システムが素晴らしく成功していたことを証明しているである。
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