「諸君、明払暁ノウィソルナ北方に向かい第20軍団方面に突破せんとす。明日は大なる勝利か、しからずんば光栄ある殲滅あるのみ」
リッツマン中将、(参謀本部編『ロッズ会戦』p.136,)



アレンビーはオスマン軍に対して間断なく圧力を加え、その騎兵はダマスカスへと突進した。ザンデルスはダマスカスに第3軍団を配置し、これに第24、第26、第53歩兵師団および第3騎兵師団を付与して防備を固めた。しかし連続する退却と戦いに疲れた第3軍団はイギリス騎兵を拒止することあたわず、10月1日ダマスカスは陥落した。勇敢なるオスマン第3騎兵師団は殿として戦い、他の兵はさらに北方へと敗走した。ザンデルスも司令部をBaalbekに後退させた。

1918年10月6日、ザンデルスをめぐる戦略的状況は絶望的といっても過言ではなかった。オスマン第8軍は壊滅し、その司令部は解散。第3軍団(第1、第11歩兵師団)、第20軍団(3コ師団)、第48歩兵師団のみが戦闘可能だった。10月始めに第43歩兵師団が増援として送られてきたのは幸いだったが、電撃軍集団は火砲のほとんどを喪失していた。しかもガリポリで敵を阻んだ峻厳な地形はここにはない――希望的観測など出来る要素がどこにもなかった。

アレンビーは攻勢を止めない。イギリス軍はベイルートを占領し、さらにさらに北へと前進した。10月16日、オスマン第4軍がHumusで包囲され、壊滅した。オスマン第48歩兵師団はアレッポの南、ハマーでイギリス騎兵を止めようとしたが、やはりかなわず、10月19日陥落した。25日、イギリス騎兵とアラブ北部軍はアレッポまで到達した。これがシリア戦役の終わりである。

10月26日、ザンデルスはアナトリアのアダナまで軍集団司令部を後退させていた。ここにカフカスや他の地域からの増援が集結中であった。オスマン領の中心部において最後の決戦を行うべくザンデルスは準備していたが、30日コンスタンティノープルへの召喚を受け、ケマルにその指揮権を移譲した。同日、休戦条約の締結によって戦争が終わった。

メギッド作戦が開始されてから38日間でイギリス軍は350マイル前進し、オスマン軍の3個野戦軍を壊滅させた。イギリス軍の損害は戦死者782名、負傷者4179名、行方不明者382名である。イギリス側はオスマン軍捕虜7万6千名、火砲360門、機関車89両を獲得したと主張している。


この物語終わりはザンデルスの回想で締めくくろう。1913年よりドイツ軍事顧問団の一人としてザンデルスはオスマン帝国に赴き、その地で5年間過ごした。オスマン軍人に慕われ、外人嫌いのケマルにも一定の評価があった人物であった。

「10月31日、私はムスタファ・ケマルにアダナで指揮権を移譲した。私は次のような命令を出して、前職での将兵に別れを告げた。

1918年10月31日、アダナ

私がこの手に軍集団の指揮権をもっていた短い間、ムスタファ・ケマル将軍と共に数々の輝かしい戦闘を示してきた。この期間においてオスマン帝国の栄光のため、私の指揮の下与えられた任務に従事したすべての将兵と役人に心から感謝する。

軍集団将兵の多くが私と共にあったガリポリでの栄光に満ちた日々は、アジアのごく小さな沿岸での多くの勇敢なる冒険心と同じぐらいに、永遠に歴史に忘れられぬものとなるであろう。

その上パレスチナでは勝利続きの6ヶ月半におよぶ絶えることのない頑強とした防御があった。Tell Azur、Turmus Aja、El Kafr、そしてはるかに優勢な敵に対し、オスマン軍とそれに彼らとともに戦ったドイツ、オーストリア兵の献身的勇敢さを見せつけた2度に及ぶヨルダン戦である。

これらの行為の記憶は、オスマン帝国がその勇ましい息子たちを信じながら、大胆に未来へ立ち向かっていくかもしれぬと私に確信を抱かせる。

オスマンの人々とその同盟者に対し、未来、平和、平穏、そして長きにわたる戦争によって苦しめられた負傷者の回復を、神が叶えてくださるものと私は信じている。

Sgd リーマン・フォン・ザンデルス

(Five years in Turkey,p.320)

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