ケマル・パシャ―灰色の狼と呼ばれた男 その①
>ケマルは当時のトルコ帝国の高給軍人としては例外的に、自らの危険を顧みず最前線を視察して時には先頭に立って戦い、兵卒に至るまで戦闘の意義を説いたのだ。

違います。

Ottoman Army Effectiveness in World War 1 に1914年3月14日付「オスマン軍命令第1号」の英訳が載っていますが、その冒頭に「A commander must lead at the front and must be able to conduct a counterattack on an attacking force」とあります。

モルトケの教令に多大な影響を受けているといわれる1936年版「軍隊指揮」にも、「第12 指揮官は軍隊と起居を共にし、危難苦楽を分たざるべからず。かくのごとくして始めて自己の観察に基づき軍隊の戦闘能力および要求に監視判断を下し得るものとす」とあるように将校と兵とのつながりを重視しています。ドイツ軍をお手本にしているオスマン軍においてもまた然りです。

バルカン戦争の結果から、エンヴェル・パシャは無能者1300人の首を飛ばしているのです。そうでなければガリポリの勝利もクートの勝利もなかったでしょう。ケマルをあまりにも特別視することこそが「西洋史観」的な考えではないかと思ったりもします。



これと同じようにオスマン帝国の参戦過程について、エンヴェル・パシャがドイツびいきであったことを強調しているものがいまだに多い。英語圏ですら、1988年に原著が出版された『平和を破滅させた和平』でその参戦過程がグダグダに尽きることを書いているのに。

1914年欧州大戦勃発時、オスマン首脳部は早期参戦(どっちの側でも可)して軍隊が継続的に戦闘できるかキャーズム・カラベキルに調査させていますが、その答えは否。バルカン戦争の痛手でとてもじゃないが、戦える状態ではないと判断されています。

オスマン帝国は同盟国を欲し、各先進諸国に交渉しています。結果は散々で、ドイツのみが「即戦力」として交渉に前向きでした。オスマン側は長期的な同盟を目指していたのですが、これが参戦のきっかけになってしまおうとは…



German Colonial Uniforms
直リンできなかったのでトップページ。German Army in the Ottoman Empire 1914-18に、Kabalakの写真がある。説明がNicolle氏より詳しいような…
まあ、Nicolle氏はトルコ語読めなさそうだし、アマゾンのレビューで西洋史観とか書かれてたりするしねー。



根無喜一「イギリス騎兵ドクトリンと騎兵馬 : その戦術的運用と戦略的運用に関して」『関西学院史学 第28号』というのがあるらしい。著者の専門からしてヴィクトリア朝期だろうな。また大学にコピー頼もう。

同じ著者の「工兵大尉ジョン・アーダーと東方危機 : 一八七六~一八七八年」『関西学院史学 第31号』はネット見れる。うう、おしい。28号もネットに上げてくれていたらうれしかった。



オットー・リーマン・フォン・ザンデルス(1855-1929)

Pomerania生まれ。1984年より軍歴に名を連ねる。
1913年、ドイツ軍事顧問団としてオスマン帝国に派遣される前は中将で師団長だった。
1914年秋、オスマン第1軍司令官に就任(第1軍は首都付近)。
1915年3月、オスマン第5軍司令官に就任。ガリポリ戦のオスマン側司令官として戦う。
1918年1月、パレスチナの電撃軍集団司令官に就任。同年9月のメギッド会戦で大敗北を喫す。
同年10月30日、アナトリア東部での防勢作戦を準備中に休戦となった。コンスタンティノープル召喚を受け、ムスタファ・ケマルに指揮権を委譲した。



エサト・パシャ(1862-1938)
Esat Bülkat

1890年代、War Academyを卒業し、フォン・デル・ゴルツ将軍の副官となる。
1897年、希土戦争で軍団長
1899年、Military Schoolの教官
1907年、第3軍団参謀長
1911年、ガリポリの第5歩兵師団長
1912-13年、第1次バルカン戦争にYanya軍団長として従軍。
1914年、第3軍団長。
1917年、トラキアの第1軍司令官。ベルリンに行き、西部戦線と東部戦線の見学。
1917年1月、第5軍司令官。4ヵ月後、カフカスの第3軍司令官になる。
1919年退役。

オスマン軍人のなかでは評価の高いほうで、とくにガリポリ戦でのパフォーマンスは称賛されている。ドイツ軍人からも頼りにされていた。



ハリル・パシャ(1882-1957)
Halil Kut

1905年、War Academy卒業。
1909年、リビアで軍務に就く。
1912年、バルカン戦争に従軍。
1915年、カフカスの第5次派遣隊長
同年、メソポタミアの第18軍団長
同年、メソポタミアの第6軍野戦司令官
1917年、カフカスの東部軍司令官
1918年、カフカス軍集団司令官
1918年、休戦によりコンスタンティノープルに戻る。

1916年、クート・エル・アラマ戦においてイギリス軍1万以上を捕虜にしたことで、一躍英雄となった。ハリルのメソポタミアおよびカフカスでの指揮は称賛されている。
他方、クート戦の捕虜に「死の行進」をさせたり、アルメニア人虐殺の責任も問われている。
大戦後はエンヴェルのおじということが災いしたか、パッとしない。
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