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Ottoman Army Effectiveness in World War 1,よりConclutionのメモ。



「アレッポの北に準備された防衛線は、4,5ヶ月間アレンビーの軍隊を食い止めるよう期待されていた。」
Yusuf Hikmet Bayur
(原注1より、トルコ人歴史家であるBayur教授はムスタファ・ケマルが休戦協定間、アナトリア中心部で所期の防御準備をしている事実を強調している)

○戦略的重要性の比較
・1918年春、オスマン軍はトランスカフカスとパレスチナ間の戦力比率の維持を試みた。
・ザンデルスはその手記において、兵と物資がパレスチナからトランスカフカスへ送られたと酷評している。トランスカフカス戦役へ不相応なまでに鉄道と船を使って石炭を費やしたと特に述べている。
・実際にはパレスチナからカフカスを支援するために送られた部隊はひとつもない。1コ歩兵師団と1コ歩兵連隊のみが帝国のいずこかから東アナトリアに送られた。これらの部隊はコンスタンティノープルから(パレスチナからではない!)海路で移動した。その上、オスマン参謀本部はカフカスからパレスチナへ部隊を送っている。第2カフカス騎兵師団および第37歩兵師団がそれである。
・物資面では、東アナトリアとアルメニアでオスマン軍は多くの兵器と装備を鹵獲し、カフカス方面の部隊はそれによってある程度自活していた。たとえば第9歩兵連隊は、2コ連隊が2千挺のロシア小銃(サンパチもあったかもね)で再装備され、ロシアの機関銃10挺、火砲10門も持っていた。
・しかし、人的資源面では不均衡が見られる。カフカスの部隊は消耗少なく、第5カフカス歩兵師団は将校330、兵7403(1918.8.5)で、一方パレスチナでは同時期の1コ師団が2千もいない。
・1918年春、ドイツ軍の春季大攻勢は行方定かではなく、アレンビーの英エジプト遠征軍ももっぱら再訓練中だった。その後、オスマン軍は戦力比率を変えようとしたが、あまりにも遅すぎた。

○戦闘有効性(1914年)
・バルカン戦争での苦い経験からアフメト・イゼット・パシャおよびエンヴェル・パシャは大戦前に改革を行っていた。1300人ものロートルと無能者の首を飛ばし、諸兵科連合部隊での訓練、師団および軍レベルでの機動訓練、歩砲協同の徹底などがなされた。
・イギリス軍は上記のような訓練を行わず、またオスマン軍に対する誤解や杜撰なインテリジェンス、古くさい認識を改めなかった。総じてオスマン軍のほうが戦闘有効性が高かった。

○戦闘有効性(1915年)
・ガリポリ戦において第3軍団はオスマン士官の高いリーダーシップを証明した。また第3軍団は戦術レベル、作戦レベルにおいても効果的だった。一方イギリス軍は振るわなかった。

○戦闘有効性(1916年)
・メソポタミアでは、1915年の終わりから1916年の始めにおいて、アングロ・インディアン軍(英印軍)を打ち負かした。オスマン軍は作戦レベルにおいて攻勢をとり、戦術レベルにおいて防御をとった。そして英印軍は不利な攻勢作戦を強要されたのである。
・この戦役でヌーレディン・パシャはエンヴェルが夢見たようなドイツ式作戦術を体現して見せた。クテシフォンでの防御から攻撃移転、そして追撃からクッテル・アラマ包囲である。クッテル・アラマ包囲初期に急襲をかけて失敗してしまったために、ヌーレディンは更迭されたが、後を継いだハリルはヌーレディンの方針を維持し、1916年春の終わりに勝利を得た。

○戦闘有効性(1917年)
・第3次ガザ戦でイギリス軍はガザ―ベエルシェバ線を抜いたが、パレスチナのオスマン軍を壊滅させるまでには至らなかった。オスマン軍の敵に対する優越が失われてきた。

○戦闘有効性(1918年、パレスチナ)
・1918年10月、オスマン軍はメギッドにおいて大敗北を喫した。電撃軍集団は戦力に比して過大な土地を守らなければならなかった。
・しかしオスマン軍インテリジェンスはアレンビーの攻撃に対して警告していた。利用できる機動予備は海岸地区へ移動し、重砲兵も海岸部へ一番集中していた。
・イギリス軍はアレンビーによる再訓練によって最新の西部戦線方式を学んだ。メギッド攻勢はちょうど1918年8月8日のアミアン攻勢のような成り行きになった。

○学習する組織―イギリス軍
大戦初期、イギリス軍はドイツ軍よりもオスマン軍よりも劣っていた。ところが1918年にもなるとドイツに学び、さらに近接航空支援や戦車部隊運用など全く新しい革新的意見も出されるようになる。この変化は第1次大戦史においてイギリス軍にユニークな地位を与えている。

○オスマン軍の強さ
オスマン軍は多戦線において忍耐をもって戦い、近代軍であることを証明した。彼らは実に約150万もの敵兵と戦った。ガリポリ40万、シナイ―パレスチナ45万、メソポタミア35万、サロニカ、ペルシャ、リビア、エデン合わせて約10万である!
英カーヴァー元帥はオスマン軍の手によってイギリス連邦軍は26.4万もの損害を出したと述べている。
「要するに、オスマン軍の強さは固有の組織的な戦術的、作戦的有効性によっていた。特に、素晴らしくまた堅固な戦闘指揮官の中核グループ、部隊を訓練し編成する能力、ドイツ式の使用、そして融通の利く先進的な組織機構は軍が効果的に使われてることを保証した。惜しみない兵、装備、兵站の優越とともにイギリス軍がオスマン軍を打ち負かす軍事能力を創造するのに3年以上もかかった。大戦の最後の一ヶ月でさえ、近いレベルの部隊を比べると、オスマン軍は好敵手であった。しばしば能率が悪く、みすぼらしく、劣悪装備だったにもかかわらず、オスマン軍は疑いようもなく、効果的な軍隊であった。」




ひどい日本語!!w
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