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●線的防御の思想

1914年世界大戦が勃発したとき、各国の軍隊は“散兵線による戦い”を主としていた。ズラリと横に並んだ小銃兵(かれらは戦列を組まない散兵である)がたがいに数百メートルはなれて撃ち合うのである。1

防御に際し、散兵線が崩れそうになったならすみやかに援隊(予備隊)を送って補強し、陣地を固守する。西部戦線での戦いが膠着に陥るにつれ防御陣地は拡大されていったが、この“線的防御の思想”の基本的な部分は、戦争が一年二年経っても守られていた。

1916年ソンム戦が始まったとき、ドイツ参謀総長ファルケンハインは「いったん陣地を奪われたならばいかなる犠牲を払ってでも奪い返すべし」と指導し、重要な戦力をなるべく前方に配置させた。結果は50万人以上とも言われる膨大な人的消耗である。これと合わせて、ヴェルダン攻勢の失敗とそれに付随する損害により、ファルケンハインは辞任を余儀なくされた。




●転換点

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参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』6頁より。

あとを継いだヒンデンブルクとルーデンドルフは、ファルケンハインがモルトケから参謀総長を継いだときと同じような状況に置かれた。ロシアはいまだ打ち倒されておらず、しかもあらたにルーマニアが連合国側について参戦してきていた。このため、ドイツは陸軍を二分せざるを得なかった(1917年1月時点で、東部戦線に122コ師団、西部戦線に133コ師団)。

参謀次長ルーデンドルフによるドイツ軍の方針は「西で守り東で攻める」である。すなわち東部戦線においてルーマニアを打倒しロシアを屈服させるまでは、西部戦線では守勢をとるのである。

1917年初頭、西部戦線のドイツ軍は戦線の背後に強力な防御陣地を構築しており、さらにアラス・ソアッソン間において有利な地形へと局地的な撤退を計画していた。強力な防御陣地――連合軍はヒンデンブルク線と呼んだ――は、ドイツが有利になるまでの時間稼ぎとなるはずのものであった。

ヒンデンブルク線とあわせて、ドイツ軍は防御思想の一大転換をおこなっていた。




●線的防御の放擲

ドイツ軍は1916年12月「陣地戦における防勢会戦統帥要領」を出す。「防勢会戦の目的は敵の戦力を消耗困憊せしめ、われ固有の戦力を節約せんとするにあり」と述べ、このため

1.大勢の人力にたよるのではなく、これに代わる機械力(野戦砲、機関銃など)を積極的に活用すること
2.陣地の保持のみに熱中してはならない。防御戦闘に有利な地形は自軍の手にのこし、不利な地形は敵にゆずるよう指導すること

を提唱している。逆襲に関しても「うしなった陣地の回復は必ずしも必要ではない」と、従来とはまったく異なる方針を打ち出した。2

ルーデンドルフは新教令の前文でこう述べている、「『ここで戦い、ここで死ぬのだ』――歩兵はもはや自分にこう言い聞かせる必要はない」。新教令は、“防御=土地の維持”の思想をすて、不利な土地は放棄してそれよりも“強力な反撃によって陣地を回復すべき”との考えを打ち出している。

この背景には、ただ単に危急の戦場に増援を送ってもたいして活躍できず多大なる損害をこうむってすぐに士気喪失してしまうこと、せまい土地に兵を集中させても飽和点をむかえて有機的に活動できなくなること、つまり“兵数の増加に比例して威力が増大するという考えは誤りである”という過去の戦闘での教訓があった。3

であるからして新教令の方針は、兵数ではなく機関銃や野戦砲といった火力を戦力指数とし、第一線陣地を固守するのではなく第一陣地“帯”に縦深にわたって防御火力を置いて敵の突撃部隊を消耗させることに変わったのである。




●陣地の構成

防御陣地は、前哨地域、戦闘地域、後方地域と分かれる。

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Lupfer, 14より。

陣地の縦深については、土地の環境と防御部隊の戦力に応じて異なる。ひらけた見通しの良い地形では、前哨地域だけで3キロの縦深をとり、そのうしろにある主抵抗線と戦闘地域が敵の野戦砲の有効射程外になるように配慮された。反対に、森林多く起伏のはげしい土地では、前哨地域と戦闘地域はほとんど同一となり、主抵抗線の前方には数百メートルの前哨のみがあった。

前哨地域のうしろ、戦闘地域前縁には、第一塹壕線すなわち主抵抗線が設けられる。この主抵抗線は可能なかぎり反斜面に設置された。反斜面にすれば敵に観測されにくくなり、また砲撃から防護されるという利点があった。ここに置かれた機関銃は、長距離射撃というよりも突発的で奇襲的な射撃をおこなうよう設定された。

主たる防御戦闘は、戦闘地域にて行われる。戦闘地域は、地形にもよるが、1.5キロから2キロほどの縦深があり、後方に第二塹壕線すなわち砲兵防護線が置かれた。新教令は、敵の大規模な攻撃により主抵抗線が取られてしまうことがあり得るのを想定しており、もし取られてしまっても逆襲により回復すればよいと明言している。

後方地域は――のちに戦闘地域の縦深がもっと深くなることになるが――戦闘地域のうしろに置かれた。

このほか前哨地域と戦闘地域(主に戦闘地域)には、小拠点が随所に散らばって置かれた。小拠点とは、塹壕・森林・小屋などを利用した小さな要塞である。数コ歩兵分隊からなる部隊が担当し、敵の観測をさけるよう巧妙に設置されていた。小拠点は全周防御を基本とし、もし敵の前進により孤立してしまっても固守するものとされた。


逆襲は新教令の重要な要素である。全地域をとおして逆襲が設定されていた。前哨地域では突撃分隊が局地逆襲をおこない、戦闘地域では突撃中隊が局地逆襲をおこなう。これでも敵を止められなければ師団予備の数コ大隊が戦闘地域の後方から進出して主逆襲をおこなう。さらにそのうしろには軍予備の反撃師団が控えており、これによる応急攻撃で敵を撃破できなければ最高統帥部がさらなる反撃師団を召致して周密攻撃を用意した。

防御はただ単に待ちかまえて守るだけではない。“きらめく報復の刃”、つまり攻撃によって防御の目的は達成されるのである。


前哨地域と戦闘地域にいる歩兵は、ある程度進退の自由が許されていた。敵の砲撃を避けるために、前方、側面、そして“後方”に一時的に退避してもよいことになっていた。4さらに、もし敵の圧倒的な攻撃に押し潰されそうになったら後退もやむを得ないものと認められていた。 5ただこれは消極退嬰の精神からではない、“自由主義的な”必勝の信念からである。一時的に陣地をあけわたしてしまっても逆襲部隊に協力し好機をとらえて陣地を回復すればよい(最終的に敵の攻撃を破砕すればよい)と新教令では考えられていたからである。

この新教令の方針に対し、批判は少なからずあった。ドイツ軍きっての防御戦の専門家であったフォン・ロスベルクは、最前線の兵に後退の権限をゆだねるなど自由主義が過ぎると批判している。さらに、独自判断で動く多数の小部隊により、収拾がつかなくなるほど戦場のカオスが増すのではないかと危惧した。

新教令とときをおなじくしてロスベルクが出した「ソンム戦における第1軍の経験」は、“敵が陣地を通過するのは守備兵のしかばねを踏み越えるときである”として文字通り死守を要求している。

ルーデンドルフはロスベルクら将校の批判に対し、柔軟に対応した。「ソンム戦における第1軍の経験」は印刷配布されたうえ、新教令とおなじく1916年12月に発布されたあたらしい歩兵教範「戦時徒歩部隊訓練教令」は死守主義を掲げている。これは新教令と矛盾する記述である。

「ルーデンドルフは新教令に自信を持っていたが、かれはまた効果的なドクトリンはドグマとなってはならないことを自覚していた。戦いが再開するとき改善が必要となる。ゆえにかれは自主的な思考を邪魔しようとはしなかった」。6

これはドイツ軍の戦術的優位を主張する者たち――ここではドイツ派とする――が重視している点である。新教令を主に執筆したのはルーデンドルフではなく、バウアー大佐やガイヤー“大尉”といった最高統帥部の若手参謀将校であったし、新世代戦術のモデルとなった突撃大隊を育てていったのは、ローワ大尉やReddemannといった下級指揮官であった。

ドイツ派は、ドイツ軍の将校たちがそれぞれ自主的な発想で戦術の改善をしていったことで結果的に戦術的優勢を獲得していったこと、さらにその前提としてマニュアルにしばられることなく自由に試行錯誤できる環境が軍内にあったことを高く評価している。7


人力から機械力へ、死守主義から自由主義へ、そして線的防御から弾性防御へとドイツ軍の防御思想は一大変化を遂げた。この変化は「絶大の尊敬を払いて考一考するを必要と信ず」8と同時代より注目されている。




さてさて、大戦4年目にしてついに戦力充実したるイギリス軍、これに対するは難攻不落の要塞を築きしドイツ軍。四つに組んだ両軍がくり広げる大いくさはいかなるものになるか。それはまた次回!

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サンシャモン戦車(IWM Q 69623




注1 わかりやすく描かれた図として、渡辺シンゴ「日露戦争に於ける日本陸軍歩兵の戦闘配置」。
注2 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』14-16頁。
注3 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』19-20頁。
注4 Lupfer, The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War, 15.
注5 Lupfer, 22.
注6 Wynne, 153.
注7 片岡徹也「陣地戦から電撃戦へ――新しい創造とは――」『陸戦研究』第584号(2000年9月):20-23頁;Lupfer, 55-58; Gudmundsson,174-176.
注8 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』16頁。日本陸軍参謀本部の編纂した『世界大戦ノ戦術的観察』は、第一次大戦時代の戦術の変遷について書かれたものとして日本語では最高峰である。ただ、たいへん読みづらいうえ、時代的な制約を抱えているように見える。ドイツに関する情報源は敵国であったためか、連合国(主にフランスか)や、戦後間もない回想録に限定されていたものと思われる(『観察』にはロスベルクの名が出てこない!)。弾性防御に関する英語圏の研究では、イギリス公刊戦史の編纂に関わったこともあるWynneの If Germany Attacks が必ずと言っていいほど挙げられる。ほかにアメリカ軍人Lupferの冷戦期の研究 The Dynamics of Doctrine 、Martin SamuelsのCommand or Control。






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