●背景

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1918年3月以来攻勢を続けてきたドイツ軍は、戦術的勝利を勝ち取りながらもそれを作戦・戦略上の勝利に変えることができないでいた。7月の第4次攻勢では、作戦が事前に漏れて戦術的にも失敗したうえ、ソアッソンからの連合軍最初の反撃によりドイツ軍は押し返された。

ドイツ軍はさらなる攻勢を準備していたが、連合軍の指揮官たちはいまや総反攻の機会が到来したと感じ始めていた。



●作戦構想

マルヌにおいてまだ戦闘が行われていた1918年7月24日、連合軍の司令官たちは今後の攻勢計画を話し合った。会議に出席したのは連合軍最高司令官フォッシュ、英大陸派遣軍司令官ヘイグ、フランス軍最高司令官ペタン、米ヨーロッパ派遣軍司令官パーシングである。

フォッシュの言うところによれば、連合軍は三つの地区で攻撃をかける必要がある。これら三つの地区で、その背後の鉄道網がドイツ軍に脅威されているからである。

一つ目はシャトーティエリChateau Thierry
二つ目はサンミエルSt Mihiel
そして最後がアミアンAmiens

とくにアミアン地区は3月に形成された突出部により、パリ・アミアン鉄道が脅威されているだけでなく、イギリス軍とフランス軍の境界線も脅威されていた。フォッシュは7月28日、アミアン地区において攻勢を取るよう公式に命令を出した。

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ヘンリー・ローリンソン将軍。wikipedia commons

これより先、7月5日、イギリス第4軍司令官ローリンソンはヘイグにアミアンにおける攻勢案を提出していた。これにヘイグは攻勢計画を押し進めることを認可し、さらに7月24日の会議によりアミアン攻勢が決まる。英国首相ロイド・ジョージは「攻勢を延期し、アメリカ軍の来着を待つべきだ」と反対したが、皮肉にもロイド・ジョージのおかげで連合軍最高司令官に就任したフォッシュはヘイグをかばった。フランスのクレマンソー首相もまた「フランス軍は疲れきっているので攻勢を取りやめるべき」と感じていたが、フォッシュは総反攻を頑として主張した。

ヘイグはローリンソンを重用したが、大突破Breakthroughを夢見るヘイグとは違い、ローリンソンは小突破Bite and Holdを基本としていた。1 大戦前半の大突破Breakthroughを構想した作戦がことごとく失敗したあと、「攻勢の最初の利を生かして前進したら、敵の予備隊が集結してしまうまえに陣地を固めて離さない」ようにする攻撃手法を信奉する将軍が現れるようになった。ローリンソンもその一人である。この手法なら大戦果の可能性も少ないが、大失敗の可能性も少ない。もちろん、ローリンソンも「敵線後方の大突破」をあきらめていたわけではない。しかしそのときはまだ来ていない、そう考えていた。2

アミアン前面はドイツ軍防備がうすい。しかも土地が比較的荒れておらず、戦車や騎兵の行動に適している。しかし、一歩わきへ踏み出すと1916年のソンム戦で荒れはてた土地に出くわすことになる。騎兵の行動が阻害されることはもちろんのこと、戦車も動けず、歩兵の歩みも遅くなることは明らかであった。ローリンソンは作戦目標を「旧アミアン外周防御線」とし、攻撃正面16キロ、深さ10キロにきびしく制限することにした。

ヘイグはもっと深く前進するようローリンソンに勧めたが、ローリンソンは頑なに拒否した。ただ、そのヘイグにしても積極的な攻勢の要求はフォッシュに対するジェスチャーの意味合いが濃かった。3フォッシュはイギリス軍のとなり、南部で行われるフランス軍の攻勢を支援するよう迫った。しかし、8月4日に出された命令は、ほぼローリンソンの構想のとおりであった。



●準備

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1918年のイギリス軍は、ソンム戦の初日に大失敗したころの軍隊ではない。

歩兵大隊はルイス機関銃30挺、8コ軽迫撃砲、16コ小銃擲弾を有していた。これらの兵器により、砲兵支援を待つことなく敵強点を攻撃することも可能となっていた。

小部隊におけるイニシアチブもドイツ軍の専売特許ではない。西部戦線で繰り返される小規模な塹壕襲撃により、イギリス軍の将校もまた“任務指揮”を学んでいった。ソンム戦は悲惨な結果で終わったが、ソンム戦に投入されたルイス機関銃と迫撃砲の用法は洗練化されていった。これらの戦訓は1917年2月、SS143「小隊攻撃訓練に関する訓令」により公式に採用された。

ルイス軽機関銃を小部隊火力の核心として側背からの攻撃を奨励されたイギリス兵は、かれらなりの“浸透戦術”を実行できるようになっていったのである。


アミアンのイギリス軍は、ドイツ軍の530門に対し、野砲1,236門、重砲677門を準備した。航空機では、365機に対し、1900機。ドイツ軍がほとんど持っていない戦車においては、500両かき集めた。そしてドイツ側3.7万に対し、イギリス第4軍は40万名と圧倒していた。4

1918年のイギリス軍はこれらの兵器をより効果的に運用する術を身に着けていた。「大砲が…戦車が…」といった一つの兵器ではない。すべての兵器を取り扱う、諸兵科連合の戦術(ソンムのイメージというより第二次大戦時代の戦術)を、悲惨な経験から学んでいた。そしてその諸兵科連合のなかで、騎兵の活躍の場があった。



●騎兵

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イギリス騎兵は、戦前から火戦と白兵戦を併用した行動を基本としていた。快速兵として歩兵よりもはやく行動できる、衝突力を生かした行動(乗馬襲撃)をする、下馬して徒歩戦もする、もちろん射撃もする、いわば戦国武士のようなオールラウンダーであった。機関銃に騎兵はなすすべがなかったとする意見もあるが5、機関銃に阻まれたなら徒歩戦に移行すればいい話で、日露戦争でさえ日本騎兵は乗馬訓練を主にやっていたが実戦ではほとんどが徒歩戦だった。ボーア戦争を経験したイギリス騎兵がこれを自覚していないはずがない。1912年の教範「騎兵訓練」は、正面からの射撃で敵を引きつけておいて側背から乗馬襲撃を行うよう指導していた。6


1917年のカンブレーの大失敗のあと、西部戦線のイギリス騎兵は大幅に削減された。ヘイグは強弁に反対したが、ロイド・ジョージと参謀総長のロバートソンは、ヨーマンリーなどの義勇兵から馬を取り上げて歩兵にし、またより適した戦地であるとしてパレスチナに騎兵を配置転換した。結果として、アミアン時のイギリス騎兵軍団は3コ騎兵師団しかいなかった。

アミアン作戦でローリンソンが騎兵に期待したのは「歩兵と戦車が突破口をこじ開けるやすみやかに『旧アミアン外周防御線』まで前進し、歩兵の来着までこれを確保する」ことであった。

第3騎兵師団は、南部を前進するカナダ軍団指揮下に入り、第1騎兵師団の第1騎兵旅団は北方オーストラリア軍団の指揮下に入った。各騎兵旅団には、ホイペット戦車中隊(16両)が支援についた。第2騎兵師団と第1師団ののこりは、予備として騎兵軍団に控置されたが、これまでの戦闘とは異なり軍団司令部から先導旅団を発進させることを要求されることはなかった。これにより、自動的に下位指揮下のもとで前進した。



●アミアンの戦いと第3騎兵師団の行動

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Anglesey, 224-225より引用。

第3騎兵師団の任務は、右翼(南方)を前進するカナダ軍団を支援することにある。具体的には、「旧アミアン外周防御線」に向かって南東に前進、Le Quesnelを目標とした。

8月8日5時40分――作戦開始から1時間後――、第3騎兵師団は前進を開始。歩兵が戦っているなかをかいくぐって突き進んだ。9時15分、Ignaucourtの橋が無事であることが確認されると(橋が破壊されていた場合Caixまで遠回りしなければならなかった)、師団はすみやかにカナダ騎兵旅団を急進させた。

11時、橋を渡ると騎兵は命令を待つことなく次の目標へ前進した。右翼にカナダ騎兵旅団、左翼に第7騎兵旅団、これに騎砲兵とホイペット戦車が支援につくといった次第である。

右翼、カナダ騎兵旅団はBeaucourt villageおよびBeaucourt Woodまで東進。両拠点からの敵火がはげしいので下馬して火戦に移行した。戦闘の支援にホイペット8両が投入されたが、ドイツ砲兵により撃退された。それからカナダ騎兵は機関銃支援を受けてBeaucourt villageを占領したものの、Beaucourt Woodは16時30分にカナダ歩兵が来着するまで占領できなかった。

左翼、第7騎兵旅団はCayeuw villageが左手に見えるところまで東進。さらに進んでCayeuw WoodとBeaucourt Woodの中間にある開けた土地に躍り出た。先導小隊がCayeuwの南の小さな低林に敵陣地の要点があることを認めると、一瞬のためらいもなく乗馬襲撃の命令が出された。喊声を上げながら第7近衛竜騎兵連隊は突撃。丘を下り、開けた土地を横切り、上って低林に突入するや陣地の要点を占領した。連隊の死傷者は48名に過ぎないが、捕虜100名以上を取り、機関銃20丁を鹵獲、野砲兵中隊もまた捕虜にしたという。7ホイペット戦車はこの動きについていけなかった。

第7竜騎兵の成功を見て、左翼の第17槍騎兵連隊も突撃。Cayeuw Woodの陣地ののこりを占領した。Cayeuw Woodを一掃した第7騎兵旅団はさらに東進。Caixからの敵火に乗馬兵がなぎ倒され一歩も前進できなくなるや、一部兵を北に回してCaixを脅かした。そのすきに旅団は前進し、最終目標である旧アミアン外周防御線に到達した。14時30分のことである。

こののち、カナダ歩兵の到着とともにカナダ騎兵旅団と第7騎兵旅団は交代したが、予備の第6騎兵旅団は次の朝まで前線にのこった。第3騎兵師団は、最南方のLe Quesnelを除いて、最終目標に到達した。


第7騎兵旅団長ユーイング・パターソンはこの日の戦闘をこう分析している。曰く、速度こそ行動の根幹であった。突撃する騎兵に対しドイツの機関銃手はうまく照準を合わせることができず、最後の60ヤードでのみ効果的に射撃してきた。そのうえ、いったん敵の先頭に到達するや士気喪失して戦うことをやめたと。かれは、攻撃を支援した騎砲兵とその指揮官のイニシアチブに称賛を惜しまない。しかし戦車の方は急速な前進についていけなかった。

パターソンは、ドイツ軍の後方地区にイギリス騎兵が大挙して現れる士気上の効果をこう要約している。かれがドイツ将校に「なぜ降伏したのか」と尋ねと、その将校はあたりを指しながら言った。「よく見ろ。どこを見てもイギリス騎兵だらけだ」と。8




●第1騎兵師団の行動

第3騎兵師団の北方では、第1騎兵師団が行動した。配下の第9騎兵旅団は、アミアン・シャルヌChaulnes鉄道線の南を前進。第1騎兵旅団は、オーストラリア軍団の直接指揮下、鉄道の北側を前進する。第2騎兵旅団と師団司令部は、第9騎兵旅団のあとに続いた。

第1騎兵師団地区では川渡りに悩まされなかった。かわりに古い塹壕あとの残骸に前進を妨害された。第9旅団はなんとかこれを乗り越え、11時までにカナダ歩兵を追い越してGuillaucourtに到達。11時15分、そこからさらに旧アミアン外周防御線に前進せよとの命令を受けた。旅団が乗馬状態で疾駆していると、不意に敵の射撃を受けたが、無視してかまわず前進した。撃ち落とされたのは少数のみ。敵機関銃は馬の速さに追い付いていけなかったのである。

13時までに第9旅団は旧アミアン外周防御線に到達。任務を完遂した。

鉄道線北側の第1騎兵旅団は、9時15分ごろオーストラリア歩兵を追い越してHarbonniersまで前進した。村からの敵火がはげしく、このため旅団は村の南側――鉄道線の近く――に回り、さらに反時計回りに包囲しようとしたが、猛火により撃退された。ここでホイペット戦車が投入されたが、2両が撃破され、1両が擱座し、騎兵ともども追い返された。

第1旅団はHarbonniersに固執すべきではないと判断、第5近衛竜騎兵連隊に対しHarbonniersをさけて旧アミアン外周防御線へ前進するよう命令した。Harbonniers村から射撃を受けるも第5竜騎兵はかまわず突進し、10時30分までに外周防御線にたどり着いた。同じころ、オーストラリア歩兵もHarbonniersに到着すると、これも占領された。

イギリス騎兵軍団は8日午後早くには所定の目標をすべて達成した。騎兵への所定の命令はさらなる前進ではない。歩兵の到着を待つことである(まるで空挺作戦のように)。陣地を保持する騎兵は、ドイツの援軍がしだいに集まってきているのを感じていた。

9日、ローリンソンは、旧アミアン外周防御線に達した歩兵にさらなる前進を命令。騎兵はその後ろで追撃命令を待ったが、そのときは来なかった。



●結果

11日、前進が鈍り、もはやこれ以上戦果が望めないと悟ったヘイグは作戦の終了を決断した。カナダ軍団長は作戦の続行を主張したが、ヘイグは英第1軍と第3軍の正面で続いて攻勢をかけるべきとして退けた。さらに8月14日の会議で、フォッシュはアミアン攻勢の続行を迫ったが、ヘイグは「わたしは政府と同胞たる市民に対し責任がある」と言ってキッパリと断った。9

ヘイグはこれまでの悲惨な失敗から、戦術的利点を追求する一つの攻勢ではもはや偉大なる結果をもたらさないことを悟っていた。それよりも、かれは(フォッシュもそうだが)連続する限定的な攻勢によりドイツ軍に圧力をかけ続けることが大事だと考えていた。それによりドイツ軍のバランスが大きく崩れたとき、最後の大攻勢のときがやってくる。戦術上の利点を追い求め続けたルーデンドルフとは違い、連合軍の司令官たちは戦術レベルよりも上の階層を見据えていた。

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Will Longstaff作「1918年8月8日」。wikipedia commons



●騎兵の価値

ある騎兵将校によると、アミアン攻勢におけるイギリス騎兵軍団の損害は1,054名である。英公刊戦史によると、全体の損害が22,202名、そのうち騎兵が887名(併せて1,800頭の損失)だという。103コ騎兵師団で1,000名ちかい損害だと考えても、歩兵と比べてとくにひどいというわけではない。


原著者不明で日本陸軍技術本部訳の『戦車戦』にはこうある。

「小型のホイペット戦車は96台が参加して善戦したけれども、ホイペット戦車隊の配属されていた騎兵が、ただ一つの機関銃のためにさえ前進を拒止されることが一再ではなかったので、せっかくのホイペット車の奮戦の効果は十分に利用されずに終わってしまった。こういう関係で、このホイペット戦車は小型で速度の速く戦車でありながら、思う存分にその威力を発揮することができなかった。歩兵よりも5キロも10キロも前方にあるべきはずの騎兵が、何時も歩兵の尻について進みしかも敵の機関銃射撃を受けるたび毎に敗滅を避けるため退却する始末なので、ホイペット戦車の活動もなかなか思うようにいかなかった。」11

これまで見てきたようにこれらは戦車信奉者の曲解である。

一つ、ホイペットは善戦していない。マークⅣとわずかしか速さが違わないホイペットは、支援すべき騎兵に合わせることがむずかしかった。平坦地なら安定してまずまずの速度が出たが、少しでも起伏があると遅すぎ、速すぎた。しかも戦闘に参加した車両はドイツ砲兵の優先目標と見なされて格好の標的となった。

二つ、機関銃だけでは騎兵を止められない。陣地戦からひとたび野戦open warfareに回帰するや、騎兵は機動的に行動した。あるいは下馬して火戦を行い、あるいは機動力を生かして回りこみ、あるいは奮起して乗馬襲撃さえ決行した。乗馬してすばやく移動する騎兵に対し、機関銃手は有効な射撃を行うことがむずかしかった。

三つ、騎兵は歩兵に先んじて要地を占領した。アミアン戦において、ローリンソンが期待したとおりの結果を出した。騎兵による大突破Breakthroughはアミアンでは意図されておらず、小突破Bite and Holdのため戦術的用法で使用された。


1918年最後の百日攻勢で半運動戦に回帰すると、皮肉なことにどの部隊も騎兵を欲しがった。英公刊戦史でさえ騎兵を等閑視したが、騎兵は火力にあがらい奮戦した。一つの兵器が、一つの兵科が、ではない。軍隊はすべての兵器を組み合わせて効力を発揮しようとした。騎兵もまたそのなかの一つである。剣を提げ、ライフルを持ち、機関銃を従える騎兵は、歩兵や砲兵と同じように、新しい戦争に対応すべく進化していったのであった。



●注

注1 Kenyon, 201.
注2 Badsey, 264, 273.
注3 Kenyon, 210. 
注4 Wiest, 171-173.
注5 ジョン・エリス『機関銃の社会史』越智道雄訳(平凡社、2008年)224-226頁。なおHigh Woodにおける乗馬襲撃は失敗していない。Badsey, 30-31.
注6 Badsey, 228-230.
注7 Anglesey, 234; Kenyon, 205.
注8 Anglesey, 236; Kenyon, 206.
注9 Wiest, 176.
注10 Kenyon, 209.
注11 原著者不明『戦車戦』陸軍技術本部訳(兵用図書株式会社、1935年)267頁。読みやすいよう漢字やかなを直した。同様の記述に、D.オーギル『戦車大突破 第一次大戦の戦車戦』戦史刊行会訳(原書房、1980年)118-120頁。