ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.06.28 (日)
オスマン帝国が敗戦に追いこまれたのは、アレンビー将軍の攻勢が決定打だったわけではない。ザンデルス率いる電撃軍集団はアナトリアのアダナにあらたな防御線を設け、もう一合戦するつもりでいた。

ナーブルスの悲劇と呼ばれたメギット会戦よりも、サロニカ戦線の連合軍が戦線を突破してきていることの方が致命的であった。1918年9月、やる気をなくしたブルガリアが降伏し、トラキア地域ががら空きとなった。しかし、首都を守るべき戦略予備がオスマン軍にはもうないのである。ヨーロッパ側の首都防衛部隊はカフカース、メソポタミア、シリアへと次々に引きぬかれて、ものの抜け殻であった。

1918年10月5日、タラート・パシャの新内閣は休戦の可能性を模索することを決定した。13日、マドリードでスペインを介して休戦しようとしたがこれは失敗した。ついでクート戦の捕虜タウンゼント将軍が交渉を仲立ちした。これはイギリスとフランスを刺激し、ムドロス島で休戦交渉に入った。

1918年10月30日、戦艦アガメムノンの甲板にてオスマン側代表が休戦協定に調印。ここに中東戦線は終了した。



イギリスはオスマン軍が崩壊寸前であると見ていたが、休戦時でもオスマン軍は25コ歩兵師団、4コ要塞司令部、3コ臨時歩兵師団が健在で、ほかの中央同盟国とはちがい士気崩壊せず指揮統制を維持していた。手ひどく痛めつけられていたとはいえ、約100万の人員がなお作戦遂行中であった。

オスマン帝国は降伏したあと、イギリス側のスケジュールに従い、1885-93年生まれの者が11月28日より動員解除され、1897-99年生まれの者は1919年1月6日より動員解除されはじめた。合わせて将校約10,000名、兵264,339名が1月22日までに復員した。3月末までにさらに337,615名が動員解除され、61,223名のみが常設として軍に残った。

オスマン参謀本部は、1919年1月21日に平時編制計画を確定した。計画によれば、軍は9コ軍団、20コ師団よりなる。アラブ人などを核とした部隊は解散し、完全にアナトリアトルコ人主体の構成に変化した。

平時編制の各師団は銃兵1,540名、機関銃36、砲8よりなる。1919年の春が過ぎることには、常設の野戦軍として約41,000名、砲256門が所属していた。参謀、学校、守備員なども合計すると将兵61,000名を算した。

オスマン帝国の財政を反映してかなりの少人数となったが、総動員となると250,000名まで膨れあがる。小銃791,000挺、機関銃2,000挺、砲945門がアナトリアにストックされており、この武器をもとに別の師団をあらたに編成することも可能であった。



大戦におけるオスマン帝国は延べ287万人を動員し、このうち77万人が死亡あるいは行方不明となった。西欧諸国から色眼鏡で見られつづけているが、オスマン軍は大戦でよく戦った。

イギリスのカーヴァ―元帥によれば、イギリス帝国の264,000名がオスマン帝国との戦闘でなんらかの損害を被ったという。別の見方をすれば、イギリス帝国の150万人、ロシアの約100万人、フランスやアルメニアの数万人を、オスマン帝国は引き付けていた。ヨーロッパ人はオスマン軍の戦力を過大に見積もりがちだが、大戦間のオスマン軍はどこの戦域でも数的劣勢にさらされていた。にもかかわらず、ゲリボル、クート、ガザで勝利を収めている。そして、主戦場である西部戦線から敵の努力を分散させ、中央同盟国として立派にその任務を果たした。しかしそれが報われることはなかった。



Edward Erickson は第一次大戦におけるオスマン陸軍の神話として5つ挙げている。

神話1:オスマン軍の作戦のほとんどは、ドイツ人が指揮するか計画していた。
ゲリボルでの第5軍(オットー・リーマン・ザンデルス)やパレスチナの電撃軍集団(フォン・ファルケンハインやフォン・クレス)を除いて、ドイツ人がオスマン軍大部隊の戦闘指揮をとることはほとんどなかった。軍団レベルやそれより下では、ほとんどの指揮官と参謀はオスマン将校で占められていた。フォン・シェレンドルフやフォン・ゼークトは参謀総長第一補佐であって、参謀総長ではない。大戦中のほとんどの期間エンヴェルが参謀総長を兼務していた。軍レベルの参謀長としてドイツ人が配置されることがあっても、プランニング作業のほとんどは、よく訓練されたオスマン参謀将校によって行われていた。

神話2:オスマン帝国には記録があまり残っていない。
事実はまったくの反対である。トルコ参謀本部は第一次大戦に関する文書150万点を保存しており、他のトルコ国家機関でも100万以上の文書を保存している。しかしながら、これら膨大な記録の多く、とくに政治・軍事的に敏感な話題のもの(たとえばアルメニア問題)は、調査者には利用できない。

神話3:オスマン軍部隊は、戦闘の重圧に負けて脱走や崩壊の傾向があった。
これはメギッド戦の印象から言われるのかもしれない。メギッド戦はほとんどが追撃戦で、大量の捕虜をとるのに理想的な状況であった。しかしながら、メギッド戦は特殊な事例であり普遍的なものではない。総崩れになることはほとんどなく、はげしい敵の圧力下で後退戦闘を行える能力を十分に有していた。また、脱走が起きるのは戦闘外の行軍のときなどであり、一般的に集団脱走は非トルコ人部隊で起きたことだった。

神話4:エンヴェル・パシャと「統一と進歩」委員会は失った領土、とくにトルコ人の地域を取り返そうとしていた。
凡トルコ主義はエンヴェル個人の考えであって、優先的な戦争目的ではなく、オスマン帝国で真に有力な戦略思考となったことはいつぞなかった。オスマン政府は、失った領土を取り返すよりも国内経済を好転させることに主眼を置いていた。1918年のカフカース遠征は、凡トルコ的な戦略目標というより、"一瞬の好機をとらえたユニークなもの"以外の何物でもない。

神話5:戦闘においてオスマン軍は尋常ではない大損害に苦しんだ。
この見解は1914年サルカミシュ戦や1915年ゲリボル戦に基づくものであろう。しかしながら、中東戦線の戦闘の強烈度は、西部戦線より低かった。死傷者の半数以上を占めていた機関銃や火砲は、西部戦線よりも少なかった。それに、戦役(キャンペーン)は文字どおり季節に沿って行われていた。ヨーロッパのように年がら年中戦っていたわけではない。

私見によりもう2つ加えたい。

神話6:"アラビアのロレンス"はオスマン帝国の戦争遂行に重大な危機をもたらした。
まったくの誤りである。軍事面でいえば、パレスチナで主力をなしたのは英エジプト遠征軍であり、アラブ反乱軍ではない。鉄道線の破壊活動も成果を上げるのは、メギッド戦前の1918年8月以降である。また、アラブ反乱についても、アラブ人たちは部族ごとに去就を変えており、シリアに住む民のなかにはオスマン帝国側につきアラブ反乱軍と交戦している者さえいる。

神話7:オスマン帝国のなかでケマルのみが際立った業績を上げた。
いくらケマルが名将とはいえ、軍隊が一人の影響力で勝つことは不可能である。ゴルツやイッゼトやエンヴェルなどの軍制改革なしには戦勝の基礎はなかったであろうし、士官学校出の参謀将校が組織をうまく運営していなければ軍隊を動かすこともままならなかったであろう。それにセルマン・パクとクートの大勝に、ケマルはなんら関与していない。



オスマンの将兵は、ゲリボルでケマルが「私は諸君に死を命じる」と言ったとおり――うち凍えるカフカースの地で! 灼熱の砂漠メソポタミアの地で! 古き宿命の地パレスチナで! 峻厳なるゲリボルの地で!――文字どおり死んでいった。

兵は無学だがよく戦い、とくに防御戦において粘り強く戦った。士官学校出の将校はドイツ式によく訓練されており、戦略・作戦次元での部隊運用を難なくこなす能力を有していた。ムスタファ・ケマルを筆頭として、オスマン帝国はエサト・パシャ、シェヴキ・パシャ、イッゼト・パシャ、ハリル・パシャ、フェヴズィ・パシャ、ヴェヒプ・パシャなど多数の有能な戦闘指揮官を輩出している。

しかしながら文字どおり国力を傾けて戦った結果は、帝国の崩壊である。

いまや、アラビア半島は失われ、シナイ、パレスチナ、シリアも失われた。もはや帝国にはアナトリアとトラキアしかない。西部では、ギリシャが今こそ古きローマの地を取り返さんとし、あわよくば故地コンスタンティノープルをわが物にせんと息巻いている。東部では、虐殺された同胞の仇を果たさんとアルメニア人が殺気めいている。この状況下で、大戦で鍛えあげられた名将勇卒はふたたび焼け跡から立ちあがり、敵の肝をつぶしこれを打ち倒していくこととなるのである。

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奪還したイズミルに入城するトルコ国民軍(ウィキペディア・コモンズ)