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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.02.14 (土)
前回のあらすじ

人名・地名の読みがわかりません(^o^)

おしえてください(^o^)



戦争がかようにむごたらしいのは大変結構。でないとわれわれは戦争を好きになりすぎてしまうかもしれない
ロバート・リー将軍、1862年フレデリクスバーグ会戦にて


1918年2月12日、ヴェヒプの第3軍は前進を開始。エルズィンジャン地域のアルメニア軍は、Morel大佐指揮下、3コ義勇兵大隊(エルズィンジャン連隊)、1コ騎兵中隊、砲6、それと少数の地元不正規兵、あわせて2,000しかいなかった。オスマン軍はエルズィンジャンを簡単に奪還し、大量の物資・弾薬・火砲を取りかえした。これに反応して、この地区のアルメニア人たちは、虐殺をおそれて東方へと避難しはじめ、アルメニア国軍はこれを援護した。
※Colonel Morelは、前職で東京のロシア武官をやっていた。Colonelは佐官の意か大佐の意か?

オスマン軍の攻勢とときを同じくして、オスマン帝国、ロシア、トランス・カフカース連邦のあいだで平和会議が開催された。しかし、3月には交渉相手がろくな軍事力を有していないと判断して、オスマン帝国は交渉を打ち切ってしまう。2月25日、黒海のなかで重要な港であるトラブゾンが陥落。増援を送るための海上輸送港として、オスマン軍はすぐに使いはじめた。

アルメニア側は、有名なパルチザン指導者アンドラニクAntranik少将指揮下に、エルズルムを守備していた。また、別の部隊がフヌスHinisとワンに展開し、ふるい国境線の内側のアレクサンドロポリ(現ギュムリ)とエレヴァンに2つの集団が集中していた。この配置は、綿密に練られた戦略計画というよりも難民が避難するまでの時間かせぎとして決められていた。アゼルバイジャンとナヒチェヴァンのタタール人への恐怖から、アラス川後方に比較的大部隊が控置されている。
※おそらくアンドラニク・オザニアン。Cucasian Battlefiels.では簡単に「戦後、(アメリカの)カリフォルニアで農夫として過ごした」とある。Wikipedia日本版に記事がある(「2014年12月15日」編集版閲覧)。
※パルチザンは、軍事用語としては、ゲリラ活動や遊撃活動を行う不正規部隊の隊員をいう。パルチザンは、ラテン語のParti(党派の意)を語源とし、sanをこれにプラスすることにより、「徒党を組んで暴れ廻る者共」のことを指して用いられた。眞邉正行『防衛用語辞典』p.368

アルメニア軍は数が少ないのにもかかわらず、ひろく展開していた。エルズルムには、第1狙撃兵連隊、第4狙撃兵連隊の1コ大隊、エルズィンジャンおよびエルズルム義勇兵からなる5コ大隊、計歩兵3,000、騎兵400、火砲8。フヌスには、第2狙撃兵連隊、義勇兵からなるフヌス連隊とカラキリセKarakilise(現アール)連隊。ワンには、第5狙撃兵連隊とワン義勇兵からなる2コ大隊。アレクサンドロポリには、第7および第8狙撃兵連隊。エレヴァンには、第3および第6狙撃兵連隊と1コ大隊(第4狙撃兵連隊所属)。これらを元第2カフカース狙撃師団長のNazarbekov(Nazarbekian)将軍が指揮した。将校の大部分はアルメニア人だったが、ロシア人も参加している。300人からなるロシア人青年将校たちは、アルメニア側に立って将校大隊を編成している。

兵約10,000のグルジア軍は、クタイシKutaisi、アハルツィヘAkhaltzikhe、バトゥミ間に集中した。これを元第3狙撃師団長のグルジア人Gabayev(Gabaishvili)将軍が指揮したが、かれは部隊の規律のなさと士気の低さを認識していた。両軍のトップ、トランス・カフカース正面司令官としてロシア人のLebedinski将軍が就任。しかし、トランス・カフカース政府の真の信任は、グルジア人のIlia Odishelidze将軍に与えられていた。

過酷な天候とアルメニア兵の抵抗にもかかわらず、ヴェヒプ・パシャは前進を強行した。アルメニア軍はエルズルム要塞でも抵抗をこころみたが、数日間の戦闘のあと、第1カフカース軍団が3月12日に攻め落とした。エルズルムとその後背地周辺を調査したところ、オスマン軍は”ロシア軍かあるいはアルメニア国軍により虐殺されたムスリムの村”を多数発見している。
※1918年3月21日付、オスマン第3軍司令官より野戦軍総司令官へ。3月13-14日の作戦について。機密暗号文。殺害されたトルコ人ムスリム(子どもを含む)が、エルズィンジャンおよびエルズルム間の地区において、多数発見されている。しかしながら、第3軍の兵はいまだ幹線道を出発しておらずその村々にも入っていないため、死体の数はさらに増えると予想される。
※1918年4月1日付、第4軍へ機密文。エルズルムの街において、2,127名ものトルコ人ムスリム男性の死体が発見された。そのときそこにいたのはアルメニア人だけだ(ロシア人はすでに去っている)。

3月25日までに、オスマン軍は1914年国境線を越えた。3月23日、土第5および第12師団がマラズギルトを占領し、その間土第37師団は黒海沿岸に沿って前進を継続している。

3月の終わりまでに、「アルメニア国軍は戦力15,000ほどにまで消耗している」とオスマン軍は見積もっている。ヴェヒプ・パシャはエンヴェルと参謀本部に祝賀文を送り、1877年国境線にまで東進すべく準備した。しかしオスマン軍が猛進するにつれて、アルメニア軍の抵抗も激しくなるものと予想された。
※1918年3月25日付、第3軍司令部作戦課より第1および第2カフカース軍団長へ機密暗号文。「オルトゥーおよびカルスにむかっての移動を準備すべし。火砲と機関銃で武装したアルメニア人およびギリシャ人により、村々で武力抵抗が起こるものと予想される」

敗走するアルメニア人部隊を急追撃する必要を感じ、ヴェヒプは自分の軍を編成をいじった。現代軍事用語でいう"作戦機動群"をあらたに編成、ヤークプ・シェヴキYakup Şevkiの第2カフカース軍団司令部を群司令部に転用し、シェヴキ・パシャ群と号した。あたらしい司令部のもとには、第1カフカース軍団全部と第5カフカース師団が編入された。第11カフカース師団は軍予備として控置され、第4軍団はそのままとされた。ヴェヒプの手元の部隊にくわえて、第6軍団の軍団長と参謀が任務のために特急で運ばれてきた。キャーズム参謀大佐ひきいる第6軍団は、第10カフカース師団と第37カフカース師団を指揮することになった。
※ヤークプ・シェヴキは1876年アナトリア東部ハルプト生まれ。1900年戦争大学を卒業し、第一次大戦がはじまったときはイスタンブル要塞地区司令官であった。かれはオスマン軍随一の頭脳を誇っていたと言われる。言語も堪能で、英仏独露およびペルシャ語、アラビア語、シリア語、クルド語、セルビア・クロアチア語を解した。ゲリボル戦たけなわとなるや第19師団長となり、ついで第3軍団長となっている。1916年ヨーロッパ遠征に参加し、第15軍団長としてガリツィアで任務を完遂した。1917年第2カフカース軍団長、さらに第2軍司令官となり、1918年第9軍司令官としてアゼルバイジャンとグルジアで指揮した。戦後逮捕されてマルタ島送りとなり、1921年アナトリア半島にもどったあとトルコ独立戦争に参加した。シェヴキ・パシャは、攻防両面に秀でた数すくないオスマン軍将校である。

中央部において、シェヴキ・パシャ群が、1878年にうしなったカルスにむかい突進する。第6軍団はその左翼に展開してバトゥミにむかい突進する。そして右翼の第4軍団がワンとバヤズィットを"解放"するのである。作戦構想は放胆であった。潜在的な問題にもかかわらず、オスマン軍の指揮官はよく任務を全うした。

このころ、エンヴェルはヴェヒプに対しバトゥミの占領がおそいと叱るメッセージを送っている。ヴェヒプはこれに驚いたが4月3日にこう返した、「本日われわれはサルカミシュを取り、明日沿岸沿いで作戦を開始するつもりです」と。ひょっとすると、エンヴェルが1914年に敗北した場所で自分は成功したのだと思い起こさせたかったのかもしれない。

オスマン軍は、4月5日サルカミシュを占領し、さらにカルスにむかって前進した。1914年冬のにがい思い出は、ここに払拭された。ながらく占領されていたワンが4月6日"解放"され、14日ドゥバヤジットDogubeyazitも"解放"されている。第4軍団は攻撃のテンポをゆるめず国境の町サライを占領、さらにペルシャに進攻してコトゥルKoturを占領した。4月20日のことである。

黒海沿岸では、アルメニア人と地元のギリシャ人がバトゥミを固守せんとしていたが、これに対し土第6軍団は2コ師団で攻撃をかけた。4月14日、バトゥミは陥落。オスマン軍はふたたび大量の戦争物資を獲得することができた。4月中旬までに、オスマン軍はさらにここからオズルゲティOzurgetiを取るべく北進する部隊と、アルダハンを占領すべく南進する部隊に分かれて進んだ。これだけならいいのだが、沿岸地区でも多くのムスリム村が瓦礫と化し、住民のバラバラ死体が多数発見されている。オスマン人はこれをロシア軍ではなくて地元のキリスト教住民がやったことだとみなした。
※1918年5月1日付、第3軍司令部2課(情報)よりオスマン参謀本部へ機密暗号文。この報告はトラブゾンおよびエルズィンジャン間の村々を強調している。エルズィンジャンのムスリムは殺害されただけでなく手足を切断されていた、とも記している。

中央部では、アルメニア軍がカルス固守をこころみていた。カルスは、1878年オスマン帝国からぶんどって以来50年間、ロシア軍が要塞化していた。ゆえに、真面目な抵抗を受けるものと第3軍が予想していた場所である。アルメニア兵約10,000によってカルスは守備されていた。

4月はじめ、シェヴキ群はカルスへと前進した。アルメニアは縦深にわたる防御によりオスマン軍を遅滞せんとこころみたが、ヤークプ・シェヴキ・パシャはこれを痛打して追い払った。4月24日までに、オスマン軍はカルスをほとんど包囲。カルス攻撃にかけるオスマン軍の決意を見てアルメニア側は開城交渉をもとめ、ヴェヒプ・パシャは平和的退却の代償としてカルスを無傷で受け渡すことを要求した。アルメニア側にはほかに選択肢がなく受け入れざるを得なかった。翌日、オスマン軍は無傷のカルス要塞に入城。大量の物資武器弾薬を獲得した。火砲も無傷のままで受け取ることができ、第3軍の戦力強化につながった。

ヴェヒプの東方遠征は4月末までつづき、ついに1877年国境線まで達した。ここで止まればよかったのかもしれないが、かれらの目はカスピ海の港バクーに向いていた。



Turkey in the First World War

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