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渡辺図書頭「小牧御陣長湫御合戦記」の成立年代に悩まされる。『長久手合戦史料集』は渡辺図書頭のことを渡辺宗綱としているようだが、本当に彼なのか? 水野勝成に話を聞いたとあるのも成立年代早さを見れる。しかし図書頭になってたのだろうかちょっとわからない。

よく分からんサイトだが渡辺宗綱は1626年に図書助になったとある。図書頭は江戸中期の渡辺貞綱になってる。郷土史家が書いた『岩崎城の戦』で「小牧御陣長湫御合戦記」の成立を江戸中期としているのもこれのせいなのだろうか。

『甫庵太閤記』と「小牧御陣長湫御合戦記」比較すれば、両者に同じような文章が見られる。元ソースが同じか、どちらかがパクってるかだけど、どちらかといえば太閤記のほうが切り取りしているように読める。そうすると太閤記成立より前のものなので江戸初期成立となる。

江戸中期成立の小牧戦話(比較的ましな部類の合戦記)では、「小牧御陣長湫御合戦記」を切り貼りした文があるし、ほかの合戦記にも切り貼りしたようなものがある。ただ、図書頭だけなぞなのだ。

白林山など地名がついていっていくのは尾張藩士が江戸期に調べて足していったものだろうと考えられる。徳川本隊による権道山越えは諸本になく(江戸末期のモノでも書かれてない)、小牧陣始末記の独創なのかもしれない。

太閤記「池田勝入斎は、家臣の人々に次のように提案した。小牧山の敵軍は日増しにその数を増しているように見える。とするなら、三河方面にはおよそ兵力もあるまい。このすきを幸いに三河に侵入して、国内の村々に放火するならば、小牧山に集まる遠江、三河両国の敵軍の敗北は確実にちがいない。」

さんざん引っ掻き回したが、池田の謀議の記述は太閤記以前には見つけられない。つまり、この記述があると太閤記以降の書と推測できる。長久手戦直後に書かれたとされる丹羽家軍功録などの丹羽本はこの記述があるので、後世の者が増補して史料的価値を損じてしまっている。

同時代史料としての松平家忠日記と江戸期に改訂された家忠日記増補がどちらあるが、増補の方はカス扱い。

戦国期の騎兵用法で、相手の備を崩す目的で乗馬襲撃が行われている。想像するにむずかしい。逆に翼側援護や偵察部隊として独立運用はしていない。

「山の尾崎より水野太郎作一騎乗下し、(森)長可備へ乗込み申候、大久保次郎右衛門忠佐、渡辺弥之助下沢より乗込み申候とひとしく、武蔵守備乱立、群々と成候時、榊原八兵衛鑓入んと進み候て、渡辺六郎左衛門直綱引留、鑓は未た早ひそ、早りて鑓を入れは、物際て勢いぬける物也、我次第に致と引合候」

「小牧御陣長湫御合戦記」による長久手合戦の描写。森長可の備に乗馬襲撃をかけたあとに鑓を入れようとしたらまだ早いと言われる云々。この鑓は徒歩の武士ユニットだろうな。

あと「足軽は鑓の垣、鑓は侍の垣、侍は旗の垣、御旗は勝負の無之物成れは、御跡に被置、御馬の先には、金の扇小纒計」という記述があり軍制が断片的に分かる。この鑓は鑓足軽なのだろうか。
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