ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.06.28 (土)
ちょうど100年前の今日に第1次大戦の契機となる事件が起こった。しかし気にせずカフカスだ!!

前回のあらすじ



イスタンブルでは、キョプリュキョイの敗北の報をあまり不吉なものとして感じていなかった。まだ頼れるエルズルム要塞がある、よく武装されており、過去にもロシア軍の攻囲にもちこたえたと。それよりもゲリボルの勝利は十数コ師団を他戦場に転用可能にし、中央同盟国によるセルビアの占領によって同盟国同士が陸続きとなりオスマン帝国に対する援助が強化されたことで軍は楽観的となっていた。

エンヴェルはゲリボル戦後の兵団運用について相談するためドイツ参謀総長ファルケンハインと会談をもった。1916年1月時点で、ゲリボルの4コ師団が即時転用可能になっていた。ドイツ側の進言により、エンヴェルとオスマン参謀本部は13コ師団を連合軍が優勢となっている戦場に配置転換させることに決めた。2コ師団がメソポタミア、おなじく2コ師団がシナイおよびパレスチナ、おなじく2コ師団がレバント沿岸の守備、そして7コ師団がカフカースである。全般的に、健全な戦略思考だった。

オスマン軍にとって不幸なことに、7コ師団をカフカースへ転用する運用計画は3つの誤った想定に基づいていた。1つ目、疲弊したロシア軍は1916年夏まで攻勢を再開しないとオスマン軍は見ていた。それゆえに、歴戦のゲルボルの諸師団は2月になるまで東方への鉄道輸送が開始されなかった。2つ目、オスマン帝国の鉄道・道路網で迅速に東方へ大部隊が移動できると信じていた。第1派遣隊や第5派遣隊で見たように、そんなことは不可能である。3つ目は、これが最大の誤算だったろうが、エルズルム要塞の能力を過信していたことである。ロシア軍に包囲されたとしても何ヶ月も持つであろうと思っていた。1877年プレヴィナ、1878年エルズルム、1912-13年エディルネとチャタルジャÇatalca、そして最近では1915年ゲリボルと、オスマン帝国の歴史がそれを証明していた。

1月29日、第3軍司令官がイスンタブルより第3軍司令部へ帰還した。ロシア軍はエルズルムだけでなくワン湖付近でも攻勢に出る兆候が見せていた。軍司令官キャーミル・パシャは戦術配置を強化しはじめた。第11軍団が、エルズルム・ハサンカレ道の正面を守備し、第9軍団がその南側面、第10軍団は北方経路を守備した。各軍団は予備として連隊同等の戦力を控置していたが、これを確保するため、前線は危険なほど薄くなっていた。ロシア軍はすぐにその弱点を利用した。

1月27-28日の夜、流暢なトルコ語をしゃべれるロシア兵たちがKornes村ちかくの戦線を突破し、第38師団司令部を襲撃した。師団長をふくむ司令部要員多数を捕虜にとり、その帰り道には砲3門を鹵獲しオスマン兵200名を捕虜とした。この襲撃の規模と成功は前線に大きなすき間があることを示している。ゲルボルやガザでは考えられないことだった。

黒海のラジスタンLazistanでは、2月の初週、ロシア軍が攻撃をかけて8キロ前進した。第3軍戦区南では、マラズギルトよりヒニスHinisに向かってロシア軍が押した。守備を担当していたのは第36師団と第2常設騎兵師団だったが、軍団規模のロシア軍攻勢を撃退することは不可能だった。