スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.03.31 (月)
第1次大戦におけるメソポタミア戦役の戦闘もまたきびしい自然環境のなかでおこなわれた。荒涼たる砂漠がひろがる地域のなかでチグリス・ユーフラテス川にそって行動するほかなく、真夏の酷暑は近代軍隊をして行動停止にいたらしめた。兵隊たちはマラリアやペストにも苦しめられた。

メソポタミア地方の住民の大多数はトルコ人ではなくアラブ人で、クルド、アルメニア、シリア、ユダヤ人がこれにつづいた。

16世紀にオスマン帝国はメソポタミア地方を占領し、これを3つのvilayet(地区)に分割した。すなわちモスル、バグダード、バスラである。1912-13年バルカン戦争のあと、オスマン参謀本部はモスルに第12軍団、バグダードに第13軍団を置いた。これら軍団の隷下にある師団は国内警備任務のため分散配置されていた。

オスマン参謀本部はこの地域におけるイギリスとの戦争を考慮していなかった。オスマン軍にとって安全な後背地と判断され、戦役計画と集中計画ではメソポタミアの兵団の多くは転出することになっていた。1914年11月までに第12軍団の全部がシリアに配置転換され、第13軍団と隷下の第37師団はカフカースの第3軍のもとに移動していった。Cevit Pasaの第6軍司令部はイラク地区司令部に縮小され、指揮下にはあたらしく編成された第38師団が置かれた。

第38師団は兵卒のほとんどが現地のアラブ人から徴兵され、つうじょう9コ大隊のところ6コ大隊しかなかった。イラク地区司令部はほかに第26歩兵連隊の1コ独立大隊、辺境警備の8コ大隊、ジャンダルマの9コ大隊を有していた。戦力の合計は2.3万以上を数えたが、機動作戦に使用できるのは歩兵6,500、旧式の機関銃3、火砲33にすぎなかった。より重要なことは、武装劣悪、素質劣等なる部隊だったということである。

1914年11月、オスマン帝国は欧州大戦に参戦した。フランスとエジプトに大部隊を集中しているためイギリス陸軍がほかに手をまわす余裕はない、とオスマン参謀本部は判断していた。ところが、11月にさっそくイギリス軍はメソポタミア南端シャトゥルアラブに上陸してきた。

イギリス軍はオスマン軍の戦力を歩兵1万、火砲114、機関銃6と見積もっていた。実際の約2倍である。そして、バスラに戦力の大半を集中していると判断していた。10月のおわりまでオスマン軍の第12、13軍団がメソポタミアを離れたとの情報をつかんでおり、開戦に合わせて遠征軍がペルシャ湾の頭へ輸送されていた。
スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。