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全体図

 7月15日、美濃国大垣にふたたび秀吉は到着した。10日たった7月29日、大坂にかえった。(注1)8月15日、再度大垣まで出陣し、小牧付近で示威行為をおこない、徳川軍と小競り合いになっている。このころ、5月より病気であった羽柴秀勝のかわりに、羽柴秀次が長久手合戦いらいふたたび前線に配置されている。

 9月2日、休戦会議がもたれたが、7日には決裂した。10月になって秀吉は大坂に帰還した。

 10月下旬、秀吉は4回目の出陣に出た。11月上旬、羽柴秀吉軍は北伊勢の縄生・桑部あたりまで北進し、長島城にせまった。また美濃より羽柴秀長軍が木曽川沿いに南進してきた。南北より侵攻してくる羽柴軍に織田信雄は窮し、11月12日ついに降伏した。

 ついで秀吉と家康の和議もなり、11月17日、家康は帰国した。そののち秀吉へ次男秀康ら人質をおくり、恭順を示した。



 これまでみてきたとおり、秀吉は会戦には負けることがあったが、戦役には勝った。戦は家康が勝ち、秀吉が外交で勝ったというのは語弊がある。秀吉は、まさしく軍事行動により織田徳川連合軍を屈服せしめたのである。







1.蟹江城合戦の影響か。




参考文献
谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」(『小牧・長久手の戦いの構造』)
跡部信「秀吉の人質策 ――家康臣従過程を再検討する――」(同上)
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