ミリタリー | 趣味・実用 | 未分類 2013.10.08 (火)
第一章 序論
第一節 クラウゼヴィッツおよび孫子略伝
第一款 クラウゼヴィッツ

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは今より150年前、すなわち西暦1780年6月1日ドイツ、マグデブルク市の近傍なるブルクに生まるときはまさに欧州改造の闘争混乱時代にして、齢十二歳にしてすでにプロイセン軍士官候補生となり、翌1793年および94年にはライン軍に属してマインツ要塞の攻囲戦に参加し、1806年イエナ会戦においては擲弾兵大隊長たりしアウグスト親王の副官として参戦し、1808年ないし12年プロイセンの政策軟弱を極めフランス皇帝と連合せんとするや彼は極力これに反対し、敵将ナポレオンのもとに参戦するを潔きとせず、走りて露軍に投じ仏軍に対してボロジノの会戦を行えり。ナポレオン、モスクワに敗るるや翌1813年プロイセン軍に帰参を請願せるもグナイゼナウの仲介もその甲斐なくプロイセン王の許容するところとならず、1813年春季作戦にはロシア将校の資格をもってブルッフェル元帥の参謀部に入るを得たり。彼曰く、「祖国のため勤務するを得るは予の誇りなり。しかもこのごとき不快なる条件の下においてするは、さらに予の誇りを倍化す」と。しかれども、彼がプロイセン軍に籍を有せざることはその手腕を発揮するに幾多の障害ありしをもって、さらにグナイゼナウを介してプロイセン軍への帰参を請願せるも、プロイセン王は依然これを聴許されざるのみならず、かえって大本営にあるをゆるさず、1813年秋季作戦および1814年作戦にはワルモーデン軍団参謀副長として主戦場外に位置しなければならなかった。
 1815年彼はようやくプロイセン軍に復帰するを得たるも幸運は依然として彼を冷眼視し、同年におけるリニー、ワーテルローの会戦においてはチールマン軍団参謀長として次等作戦に終始せり。
 1815年和平回復以後、クラウゼヴィッツはほとんどその天賦の才幹を発揮するの機会なく、1815年より同18年まではライン軍参謀長としてコブレンツにあり、1818年より同30年までは陸軍大学校長としてベルリンにありしも、教育上直接その影響を及ぼすことなく自らの戦史の研鑽に努め戦争学理の研究に没頭せり。
 1830年第二砲兵監に任命せられ、武運拙かりしクラウゼヴィッツにもまた幸運の曙光ようやく認めらるるがごとく、六月革命は戦争再発の兆しを呈し、グナイゼナウを最高指揮官としてクラウゼヴィッツはその参謀総長たるの内命あり。彼は着々その準備を進め、将来モルトケ元帥が実施せる対仏作戦計画の大本を作成せるも開戦に至らず、ついに彼の深遠なる識見もこれを現実に試みるの機なく、翌1831年11月16日グナイゼナウに続きて死亡す。
 クラウゼヴィッツはシャルンホルストおよびグナイゼナウの朋友かつ補助者にして、タウロッゲン条約および東プロイセン国民軍の編成にあたりその才幹を認めらる。シャルンホルストのクラウゼヴィッツに宛てある書簡に曰く「小生を理解し得る者は貴官一人のみ。我らの思想は一致するか、あるいは協調して不変の方向を保持すべしと信じ候」。またグナイゼナウが1817年11月21日ハンデンベルクに宛てたる書簡に曰く「クラウゼヴィッツは異常の才幹により国家の核心を成す人物に候。もし小官にして軍の最高位置を占むるに堪えざるものとせば、喜んで彼の下僚として勤務可仕候」と。もってクラウゼヴィッツの信望を見るべし。
 クラウゼヴィッツの昇進はきわめて迅速にして、30歳にして少佐、34歳をもって大佐、38歳をもって将官となれり。しかも同僚は彼が最高位値に就くべきを信じてあえて羨怨せざりき。
 クラウゼヴィッツの才幹は先輩の認むるところにして同僚の是認するところなるにもかかわらず、彼の一生は必ずしも幸運ならず。戦史はつねに彼を逸し、大事業は一つとして彼の名を冠するものなく、1831年彼がコレラに斃れたるとき、彼の妻およびその少数友人以外は彼の真価を知る者なかりし状態なり。1832年未亡人により出版せられたる彼の遺書『大戦学理』により、世人ははじめて彼が何人なるかを知れり。世人動もすればクラウゼヴィッツは「理論家なり、実戦家にあらず」と非難せんとするものあるは当を得ざるなり。彼は実戦家としてはいまだ試験を受けざる者たりしなり。