ミリタリー | 趣味・実用 | 楠公戦史 2011.11.11 (金)
楠木正成に対する私の論点。少しまとめる。

・ゲリラ戦の名手なのか
戦後の楠木正成に関する記述では、ゲリラ戦の名手などとしているものが多い。しかし正成は元弘の乱だけ、つまり千早城と赤坂城の戦いだけではなく、尊氏反乱後の戦いにも加わっている。尊氏反乱後の戦いは正規戦である。
そもそもゲリラ戦というのは、「不正規で、主勢力を現地住民が占める部隊により、敵が保持する地域或いは敵領土内で行われる軍事作戦及び軍類似作戦をいう(統幕用語)」(真邉正行編『防衛用語辞典』)である。元弘の乱でも正成は篭城していたわけであって、ゲリラを主導していたわけではない。渡辺橋の戦いという野戦も行っている。

・洛中合戦
1335年12月29日の戦いはあったのか。『太平記』は偽の退却によって足利軍を分散させ、それに乗じて一気に京へ討ち入ったとしている。しかし、『太平記』以外ではこの記述はなく、より史料性が高いとされる『梅松論』は「29日は合戦なし」と記述している。軍忠状などにも29日合戦に言及しているものはないようで、29日合戦の存在は疑わしい。

・旧軍の研究
戦後の文献では、戦前の将校による研究を無視することがほとんどである。たしかに皇国史観に染まったようなものが多いが、戦のプロなのでこれに関しては興味深いところがある。林部與吉中佐などは皇軍将校には珍しく批判精神があるようで、彼の古戦史に関する記述はとくに面白い。

・必勝の信念なき軍隊
しばしば忘れがちになるが、南北朝時代の兵の士気は恐ろしく低い。戦国時代のように組織的ではなく、確固たる信念があるわけでもない。一族郎党以外の兵はすぐ逃げ、すぐ裏切る。これこそ新田義貞が湊川の戦で圧倒的不利にもかかわらず戦うことなしに京へ退却できなかった所以となる。リーダーシップを疑われては集まる兵も集まらなくなるからだ。義貞はこれを恐れてついに陣を引くことができなかった。彼とて歴戦の武将であるから自軍の片翼に面する瀬戸内海の危険性に気付かないわけがない。義貞には水軍なく、尊氏には大量の水軍があった。

・指揮の統一性の問題
大塔宮の死亡とそれが与えた軍事的影響、とくに指揮の統一性の問題。尊氏反乱後はしばらく北畠と新田が相並ぶようになったために、統帥上の混乱が見られる。





今の楠木正成のトレンドは以下の2点だと思われる。

・正成の出自に関する問題
・皇国史観からの脱却

私にはあまり注目を引かない問題で、むしろ皇国史観を意識するあまり首をかしげる記述も多い。