スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ミリタリー | 趣味・実用 | 楠公戦史 2010.10.30 (土)
たびたび引用してきた林部與吉中佐「一の谷合戦」『日本戦史の研究』の説にしたがって一の谷の戦いを再現してみる。



●通説
通説一の谷合戦要図


●両軍の態勢
林部中佐の大胆な推論が展開される。源氏方の総兵力は約3千、このうち範頼軍2千、義経軍1千である。鵯越の逆落としの70余騎もあまり不自然ではなくなる。

『吾妻鏡』は範頼軍5万6千余騎、義経軍2万余騎。『平家物語』では範頼軍5万余騎、義経軍1万余騎としている。だがやはり当時の日本がそんな大兵力を動員できたのか、展開できたのか、運用できたのかと疑問を感じる。しかも乗馬兵が万単位なのだから、首をひねるばかりだ。

林部中佐は軍務経験者らしい推論を述べる。

「今かりに全部を乗馬兵とし、総勢1千騎ありとせば、今日の騎兵旅団の半部に相当す(無論機関銃や騎砲はのぞく)。すなわち乗馬部隊としては居然たる大部隊であり、その行軍長径も二伍縦隊として、約300メートルにあまり、もし一伍縦隊ならば、まさにその倍数よりやや大となるわけである。1千騎にしてすでにこのごとし、1万騎、2万騎などはもって想像すべし。義経いかに天狗の神通力ありとするも、快鞭一撃、丹波の山中、10里、20里を一気に乗り切って、即夜、ただちに戦闘を部署するなどとはじつに夢のような話である」
『日本戦史の研究』pp.167-68

では兵力数の問題をいかに解決するか。『玉葉』によれば、「源氏の兵数2,3千騎」とあり、また「官軍ら手を分かつの間一方わずかに1,2千騎にすぎず」とある。中佐はこの作者、九条関白兼実は兵力数に関しては一家言ありとしてこの数字を採用する。

一方、平家方の総兵力は約8千と推定する。

一の谷敗戦後、屋島に帰った兵 約3千(『玉葉』2月19日の条より)
戦死者 約1千(『吾妻鏡』2月9日および同2月15日の条より)
計 約4千

戦後、海上陸上ともに、逃げ散った兵数を全体の約半数に達するものと仮定すると、総兵力合計約8千となる。そして合戦時には6千の兵が陸上で戦ったと見る。

時代を考えると逃げた兵は半数以上も考えられるが、おおむね納得できる。


●作戦計画
平軍が福原に集中中であり船舶によって続々上陸中であることを察知した源軍は、「敵の上陸半途においてこれを撃滅せんと」すみやかに攻撃に移ることに決した。部署は範頼軍約2千が大手方面より、義経軍約1千が搦め手方面より攻撃する。

源氏の軍勢、京都を出発するは1月29日。2月2日より大江山に滞在する。林部中佐によれば、今の向日町、岡のあたりである。そして4日になって出発し、ここより範頼軍と義経軍は分かれて分進した。

一方、平軍は源氏の討伐および京都奪還のため福原に集中中であった。平軍主力が兵庫に上陸したのは2月7日より数日前で、いまだ上陸半途だった。上陸早々のため兵馬ともに疲労していた。

守備配置は主力をもって生田川の線、各一部をもって梅ヶ鼻(西須磨西方)および鵯越本街道および烽火峠(梅ヶ鼻北方)に就く。また、三草山付近に有力な一部を派遣して敵の前進を遅滞させる。


●経過
一の谷合戦要図1_convert_20101030131636

義経軍は山手より前進し、5日小野原にいたる。ちかくに平軍の一部がいることを認め、義経は斥候を出させる。偵察の結果、警戒粗慢とみた義経は即夜攻撃することに決める。夜襲により、平軍は散々に追い散らされた。この部隊は源軍の接近を知り、5日早朝より急ぎ進軍してきた者たちである。三草山西口に到着し疲労困憊になって宿営したが、警戒がおろそかになりそこを義経軍に叩かれたのである。

三草の平資盛支隊を一蹴した義経軍は、6日さらに進んで一の谷背面に近づき兵を分けた。西口に向かうものと、鵯越に向かうものとである。一方、大手の範頼軍は敵と相対して義経軍の突入を待った。

いよいよ7日早朝にいたる。

一の谷合戦要図2_convert_20101030131935


源軍は総攻撃に移った。生田川の範頼軍は激しく押し出し、西口方面でも激戦となった。この間戦機を看破した義経は、特別選抜隊70余騎を率いて敵山の手部隊を襲撃した。虚を突かれた平軍山の手第一線部隊は敗走し、義経隊はそのまま敵背後深く進入した。

西洋のことわざに曰く、「背後の1人は正面の10人に勝る」と。

山の手部隊は大混乱に陥り、海岸へと敗走した。進入軍の一部はただちに船舶のほうへとさし迫り、また同時に他の一部は戦果を拡張して、東西木戸口の背後を攻撃した。ついに、平軍は総崩れとなり、船へと逃げるように潰走した。

本会戦、時間にして約8時間、激戦を演じたるは2,3時間。午前4時から正午までの間に源軍は大勝利した。


●結論
一の谷合戦は源軍、なかでも源義経の拙速が目立つ戦いである。平軍が福原に集結中とみるや速やかに攻勢を決意し、前方に敵あり警戒うすしとみるや即に蹴散らし、山の手に戦機ありとみるや特別選抜隊を率いて平軍を大混乱に貶めた。これ名将といわれる所以であろう。

古い文献にあるように、屈強なる源軍、文弱なる平軍という見方は賛同できない。兵を大量に動員すれば質が落ちるのは当然のことであり、源軍においてもこの傾向があったと見るべきである。

最後に兵力数の問題と戦場地の問題について。これについては林部中佐の言を引用することで終わりとしたい。

「由来、敵の数は実際よりは過大に伝聞し、かつ記載されるのがつねであり、日清日露の戦の場合でも、また今次、日支事変に際してすらしかりである。また戦勝の報告記事中には、敵数を誇大に表して、軍功をいやが上に輝かんとするのが人情である」
『日本戦史の研究』p.171

「鵯越逆落としの現地決定については、今なおいろいろの人が、それぞれの立場から眥を決しひじを張りつつ論議しているのはおもしろいことである。あるいは文献上の研究から現在の須磨、一の谷付近であるといい、あるいは実際上の研究から長田の奥付近であるといい、いまだ確とわからない、また真実わからないのが本当であろう。それを知れるもの、三千世界にただ九郎判官義経とその直属麾下の勇士あるのみ。それとても今彼らを地下から呼び来って道案内させたら。年月久しゅうしてスッカリ忘れ果てたと訴えるかもしれない。初めて踏んだ土地のこと、しかも目まぐるしく変化する戦場の駆け引きに、一々そう執念深く通過地点を記憶に存しておろうはずがない。

これは日露戦役に従事した老将士たちが、命をかけた晴れの舞台を後来訪れてみて、ハッキリ想い出されぬのが多いと一般である。

そこでもし是非ともその真点(ベリースポット)を捜しあてて、ここぞ九郎判官逆落としの場所を昭和の何某が発見したと名乗りをあげたい特志家あらば、なにとぞ雪のちらつく旧暦2月の初めつかた、騎馬武者7~80騎を引具して、全夜来鵯越を北方から入り込んで、駆け回りつつ早暁にいたり、しかるべき地点を縫うて兵庫へ侵入することだ。かくてその地点の相当な坂路に、自費で石碑でも建立するがよい」
『日本戦史の研究』pp.203-4


●参考
「源義経と一の谷の合戦」『週刊ビジュアル日本の合戦』講談社、2005年
偕行社編纂部編『日本戦史の研究』偕行社、1937年
三原敏男『名将の軍略』軍事学指針社、1943年


スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。