楠公戦史 2010.06.26 (土)
四条畷戦前、南朝の作戦構想。

1.吉野および金剛山山系を中心とする山岳に拠って、長期持久を策し、幕府内部の変を待つ
2.そのため、中河内以北の平野部においては、なし得るかぎり歩々の抵抗を試み、敵戦力の消耗を測る
3.吉野の行営は、やむをえなければ放棄し、さらに奥地への動座を予定する

これに基づき楠木正行は中河内以北において遅滞戦闘に任じたが、予期せず決戦に巻き込まれ戦死した。

『太平記合戦譚の研究』pp.287-288



2月10日、宮方先鋒楠木正成勢と足利勢が西宮~打出において遭遇戦。
1日持ちこたえるとの目的を達したか、足利勢の圧力に耐えかねたかなどの理由により、夜間に撤退。

2月11日、豊島河原の戦い。
・新田・北畠本隊の決戦中、楠木勢が西宮~打出の隘路口を押さえるよう退路遮断行動。
(このときの迂回路については、浜南迂回か、北からの甲山迂回か、あるいは2つ同時かで意見が分かれる)
・背後に危険を感じた足利勢は11日夕刻、西国街道沿いに後退。これを追う新田・北畠本隊と足利勢主力後退を援護するための残置部隊が小清水付近隘路口にて衝突(小清水の戦い)。
・足利残置部隊は12日早朝まで小清水で南朝方を押しとどめた。
・その後、足利尊氏は九州にまで落ち延びた。

『太平記合戦譚の研究』pp.125-130



「さて、元弘の乱の終息にあたって、宮方の見地から全国の合戦を対極的に観察するならば、きわめて巧妙な時期的な符号に注意せざるを得ない。六波羅の陥落が5月7日、そして北探題仲時以下の番場宿における自害が5月9日、新田義貞の旗揚げが5月7日、鎌倉府の滅亡が5月22日、九州探題北条英時の滅亡が5月25日と続いており、かくも順調な幕府討滅の手順は、大体一本化された指令に基づく計画的なものであったと見なければなるまい。(中略)基本的事項は笠置ないし隠岐で決定された事項であったとしても、その実行については別の期間を想定しなければならない。言うまでもなく、それは大塔宮を中心とした地下潜行の組織だっただろう。」
『太平記合戦譚の研究』pp.87-88

こんな図か?

後醍醐天皇(政策決定)

└大塔宮(軍事総指揮官)
 ├楠木(敵大部隊の吸引)
 ├赤松(京都進攻部隊)
 ├・・・
 ├
 ├
 ├
 └

大塔宮の死亡が宮方の統一指揮の欠落となったとしたら…

もし大塔宮が生きていたら、湊川の戦いの前の正成の献策をどうしただろうか。



以上、『太平記合戦譚の研究』より。

本文はこんなに作戦戦闘史ちっくじゃないので、あしからず。これでも軍事的見地からの検討があるだけまし。やはりこれ以外だと戦前の研究に頼らざるを得ない。
つーか、この本高すぎ。仕方なく近くで置いてある図書館(といってもバイクで30分かかるところ)で借りたよ。

あと地図がほしい。

あと『戦陣作法事典』も。



「昔から今まで人が望むのは名誉と利益の2つである。今私達は畏くも天子様からお頼まれして屍を戦陣にさらすとも名を後世に残すことを、生前の思い出、死後の名誉と考えている。ただ迷うことなく決心する以外に方法はないと思います」
名和長年の弟長重、元弘の乱での後醍醐天皇の援軍要請に際して
『新訳 太平記を読む』p.169

この翻訳は定本をとくに決めておらず、現代人向けに特化されたもの。史料として使うには難がある。