1917年の英軍攻勢がエルサレム占領によって一段落した。

1918年2月、アレンビーはジェリコJerichoに向けて攻撃を再開した。攻撃は2月19日に始まり、土第26、第53歩兵師団を痛打した。2日後オスマン軍は第7軍が構築していた陣地に後退した。

これと同時期の2月、オスマン軍では指揮官の交代があった。フォン・ファルケンハインが更迭されたのだ。彼のルーマニア戦役での輝かしい勝利は、第3次ガザ戦の敗北によって今やヴェルダンでの失態に覆い尽くされようとしていた。しかもファルケンハインはその参謀にオスマン軍人を入れようとしなかったので、現場のオスマン人にいい印象がなかった。

これに代わるはガリポリ戦で勇名を馳せたオットー・リーマン・フォン・ザンデルスである。オスマン側からはリーマン・パシャと呼ばれていた彼は電撃軍集団司令官に就任するまで第1軍の指揮を執っていた。これとともにオスマン参謀本部は電撃軍集団の担当地域からメソポタミア、つまり第6軍を外した。これで軍集団はパレスチナ方面に専念できるようになった。

(第4軍[ジェマル、同じ名前だが偉い方とは違う]、第7軍[ムスタファ・ケマル]、第8軍司ジェヴァド]に司令官が第3次ガザ戦から代わるのだけれど、いつの時期なのか?)

ザンデルスは3月8日シリアに着くや否や、すぐに電撃軍集団の指揮を執った。ファルケンハインはアクティブ・ディフェンス(機動防御、攻勢防御…機動防御のほうがいいか。攻勢防御は初めから攻勢を企図した防御と攻勢することによって相手の攻勢の出鼻をくじく防御に分けられると思う)を賞用していた。つまりしなやかな防御、土地に過度の執着をすることなく強力な反撃によって敵を撃退する方法をとっていた。しかしザンデルスはガリポリ戦での経験から、いかなる犠牲を払っても土地を防御するという戦術上の防御セオリーを固持していた。電撃軍集団にもこの方針を下達した。この方針の転換はこの後の作戦において重大な影響を及ぼすことになる。


ザンデルスが来てほどなくしてイギリス軍が攻勢に出た。いわゆる第1次ヨルダン戦である。

イギリス軍はヨルダンの東の川の方向に進撃した。この攻勢に呼応してデラ-ヘジャーズ鉄道に対する大規模な襲撃をアラブ反乱軍が行った。3月21日オスマン第48師団に対して、イギリス軍2個歩兵師団及び2個騎兵師団が攻撃した。30日、イギリス軍は土第48師団をアマンに追いやったが、31日奇妙なことに撤退した。Order to die,p195によると、これに関して英公刊戦史やウェーヴェルによるアレンビーの伝記には明確な説明がなされていない。この先に強力なオスマン軍予備隊と堅固な陣地があったことは確かだが、それですべてを説明しきることはできない。

後退するイギリス軍に対しオスマン軍は当然ながら追撃した。4月11日、オスマン軍は反撃を中止し、塹壕を掘り始めた。1回目のヨルダン戦はオスマン軍の勝利に終わった。

第2次ヨルダン戦は4月30日に始まった。イギリス軍はヨルダンを越えて再びアマンに攻撃をかけた。2週間に及ぶ戦闘の後、オスマン軍は第24歩兵師団と第3騎兵師団(この師団は予備としてよく出てくる)を召致して、前進するイギリス軍の側面を衝いた。この戦いもオスマン軍の勝利となった。

1918年春の作戦において、オスマン軍は反撃のさい突撃隊を投入している。オスマン突撃隊はドイツ軍人の指導によって、現地でドイツ製装備を拝領して4週間の訓練を施された部隊である。各師団中の一部の健兵を引き抜いて編成されたので、一般歩兵部隊の素質はさらに悪くなった。塹壕強襲部隊である突撃隊であったが、1918年度のオスマン軍はこの強大な敵に対し攻勢を行う余力はなく、ちょっとした火力部隊として主に反撃で使用された。春の作戦での反撃で突撃隊は擦り減らされてしまったことだろう。


イギリス軍はさらなる攻勢を考えていたが、悲しいかな、西部戦線でルーデンドルフの大攻勢が起こっていた。兵が足りないからちょうだいと参謀本部に言われて遠征軍は泣く泣く手放した。代わりに受け取ったインド兵は質が悪い、これを訓練し終えて次の作戦を開始したときには9月の中旬になっていた。


以上が1918年春の作戦で、次がメギッド戦。これはWikiPに書いているので…メギッドの戦い




あとはとりあえず第3次ガザ戦の続きとエルサレム追撃戦か…。オーストラリア公刊戦史の該当項印刷した紙がどっかいっちゃったんだよね(汗
英軍公刊戦史が無性に欲しい。あとウェーヴェルによるアレンビー伝記。

ん?WikiP英語版は春の作戦を無視している?!