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この文章は『新月旗はためく下で 第一次世界大戦における中東戦線史』の付録として収録されていたものです。誤解・誤読に基づいていると思われる部分があったり、いまとは意見が異なる部分があったりするので多少手を加えて注を付けようかと思いましたが、予想以上に時間がかかるので文章はそのまま体裁だけ整えました。



散兵線の戦い
19世紀初頭のナポレオン戦争で時代を華やかに飾った戦列歩兵はそれ以降ゆるやかに姿を消していった。

ライフリングされた後装銃が新たに開発される。この小銃は高い命中精度を誇り、その射撃を避けるために歩兵は戦列を組まなくなっていった。その代わりに、彼我500メートル内外を隔てて、1-2歩間隔(約0.7-1.4メートル)の散兵による線が展開され、中隊長の統制下で互いに小銃を撃ち合うようになった。また、普仏戦争までに多くの軍隊で後装式の大砲も採用されていった。

1899-1901年ボーア戦争では、イギリス軍の予想外の苦戦に各国は注目した。散兵線を展開し陣地にこもるボーア兵の小銃射撃により、イギリス軍の正面攻撃が何度も挫折したのである。マゲルスフォンテーン、ストームベルグ、コレンゾの1週間で行われた三つの戦いで、イギリス軍の攻撃が失敗してボーア軍に撃退された。最終的にイギリス軍が戦争に勝ったものの、防御優勢が兵学界でささやかれた。

ドイツでは、ボーア戦争の戦訓により敵の射撃を避けられるよう“より広い散兵線”が採用された。ただ、この“より広い散兵線”を展開することで効果的な指揮を維持し続けることができるのか疑問視された。小部隊戦闘は依然中隊長の指揮下にあり、小隊長や分隊長、つまり少尉や下士官に戦闘指揮を委任することには躊躇があった。これはドイツにかぎらず列強各国の認識である。戦闘空間の拡大は認識しているものの、少尉や下士官が本当に自主的に行動できるのか疑われていた。

1904-5年の日露戦争は、これより前の雰囲気を一掃した。少数のみ配備された機関銃が偉大なる効果をもたらしたが、同時に日本軍による“果敢な攻撃精神”によって最終的にロシア軍が撃退されたとみなされた。この影響で「不撓不屈の攻撃精神が頑強なる防御をよく制す」との考えがヨーロッパ軍事界に蔓延した。

この他、日露戦争の戦訓により、機関銃の増大、重砲兵の野戦運用などが各国で行われた。

第1次大戦直前の各国歩兵師団は、12コ歩兵大隊を基本としていた。独仏露は2コ旅団4コ連隊(1コ連隊は3大隊を有する)、英は3コ旅団12コ大隊である(イギリスの連隊は管理単位なので、戦時には旅団の下に大隊が来る)。砲兵は70ミリクラスの中砲を持ち、ドイツやイギリスは100ミリ以上の重砲も師団編制に組み込んでいた。日露戦争期の日本軍師団編制に機関銃はなかったが、大戦直前の各国歩兵師団には24-32挺が配備されていた。


火力に逆らう男たち
1914年8月、いざ大戦が始まると“不撓不屈の攻撃精神”は破滅的結果をもたらした。増大する火力は密集する歩兵たちを次々と吹き飛ばし、機関銃が一挺でも生き残っていれば1コ大隊が阻止されるとまで言われた。

とくに強くイメージされるのがフランス軍である。大戦直前の教令には「フランス陸軍は、その伝統に復帰し、攻勢以外の原則を認めない」とまで書かれ、実際に“軍旗を翻し太鼓を打つ”ような調子で突撃を敢行した。結果は、血塗れの地獄絵図である。

理論と実戦の乖離は、大戦前半とくに交戦国を苦しめた。フランス軍などは羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くがごとく、

「人力をもって機械力に抗することはできない」
「歩兵は砲兵の援助なくば前進してはならない」
「『1コ師団の歩兵で奪取できなかった敵の陣地は3コ師団の歩兵をもって奪取すべし』との思想は誤りである」

などと教令に書き、戦前とは正反対の思想に世界を驚かせた。


戦術の変化
西部戦線における戦術の変化の古典的見解は「ドイツ軍は方法を変えることで陣地戦の突破を可能にしようとし、英仏軍はテクノロジーにより解決しようとした」である。わが国で第1次大戦の戦術解説書として最高峰と言っていい参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察』もこの見解に従っている。

西部戦線で主に攻勢を主導した英仏軍は、大戦初期において、敵の残存機関銃・火砲に悩まされた。砲撃をしても、そのあと歩兵が進むと、生き残った敵兵がしぶとく反撃してくるのである。この反動で英仏軍は狂ったように鉄量を浴びせかけるようになった。

その中で、精緻化された結晶の一つが“移動弾幕射撃”である。生き残った敵兵が反撃してくるのであれば、その敵兵が頭を上げられないようにすればいい。味方の歩兵の前進と合わせて砲撃も前進させればいいのだ。厳密に時間を区切ったスケジュールで弾幕が前進し、これに合わせて歩兵も前進した。当時の通信技術の限界から歩・砲兵間で連絡がうまく取れず、しばしば弾幕射撃の移動が先行し過ぎたが、相当な効果を挙げた。

1916年ヴェルダン戦後期や1916年ソンム戦で、英仏軍は数日間・数週間の攻撃準備砲撃を行ったのち、移動弾幕射撃の援護下で歩兵に突撃させた。かれらは敵陣地の“撲滅”を志向していた。敵の障害物すべてを殲滅して突破しようとした。一言で言い合わされるのが「砲兵が耕し、歩兵が占領する」である。

こうしたテクノロジーに頼る英仏軍の方式は、1917年ニヴェル攻勢で限界を示すことになる。勝利を約束したニヴェル将軍による攻勢は大失敗し、フランス軍兵士が反乱を起こす騒ぎにまで発展した。フランス軍は混乱をなんとか治めることができたものの、もはや攻勢を行える気力はなくなった。

代わって攻勢を主導したのがイギリス軍である。1917年中の攻勢で、ドイツ軍の縦深陣地に果敢に挑戦した。新しく登場した戦車が幾分活躍したものの、敵線後方まで突破することはできなかった。パッシェンデールの戦いの途中でついにイギリス政府から待ったをかけられ、イギリス軍の攻勢は挫折に終わった。


これと対照をなすのがドイツ軍である。かれらは英仏軍よりも砲弾使用量で劣り、移動弾幕射撃にあまり頼れなかった。であるので、かれらは敵陣地の“撲滅”を諦め、“制圧”し同時に混乱に貶めて敵陣地の“無力化”を図ろうとした。

奇襲効果をなくしてしまわないよう攻撃準備射撃は数時間とされ、砲撃は毒ガス弾を混ぜて敵を混乱させようとした。この砲撃に間髪入れず歩兵が突撃した。歩兵には「後顧の憂いを考えず、敵強点を避けて抵抗の弱い場所をできるかぎり突破していくこと」が指導されていた。この歩兵戦法が俗に“浸透戦術”と呼ばれているものである。そして、歩・砲兵の協同作戦全体が“ユティエ戦術”とか広義の意味での“浸透戦術”と呼ばれている。

英仏軍は戦力の集中を重視していた。戦略次元では連合国間での同時攻勢を何度も計画していた。作戦次元では、英仏軍の協同作戦を重視していたし、戦術次元では、1コ師団の前進距離は規制され攻撃衝力を失わないうちに他の師団と交代させようとしていた。

一方、ドイツ軍は戦機を重視していた。1918年「陣地戦における攻撃」教令によれば、攻撃師団は力ある限り前進することになっていた。師団の交代は行わず、一気に突破して敵の防御システムを麻痺させ、さらに全面崩壊へと導くことを目指していた。のちの1940年西方戦役のドイツ軍の圧勝から翻って、第1次大戦のドイツ軍の手法は称賛された。


冷戦期の研究
冷戦期の研究はドイツ軍の優越を踏襲している。

ベトナム戦争に敗退したアメリカ軍はテクノロジー偏重の思考を反省し、軍事史を見直して軍事思想を発展させようとした。俗にいう、クラウゼヴィッツ・ルネッサンスである。この中で、第一次大戦期のドイツ軍も注目された。

アメリカ軍人Timothy Lupferは、ドイツ軍人の個々の努力の結晶により戦術が発展していったことに注目している。イギリス軍は戦術的ジレンマを解決するのにしばしば戦車や大砲といったテクノロジーに頼った。1918年春季大攻勢でもドイツ流の防御陣地を形だけ真似していたが、その真意を理解しておらず、ユティエ率いるドイツ第18軍に大突破を許した。

これとは対照的に、ドイツ軍は発想を変えることで陣地戦を打破しようとした。ルーデンドルフ、ガイヤー、ブルフミュラー、ローワ、ロスベルクといった個々の創意を注意深く観察し、戦術に取り込んでいった。これにより1918年春季大攻勢での躍進を可能にしたという。

同じくアメリカ軍人のBruce Gudmundssonは、ドイツ軍の優位を主張しつつも「陣地戦という難問題を解決するために、連合軍はテクノロジー的解決に走り、ドイツ軍は戦術的解決に走った」というテーゼを否定している。ドイツ軍の戦術的解決は多くの新兵器――火炎放射器、軽機関銃、歩兵砲、迫撃砲、手榴弾、小銃榴弾、短機関銃など――を用いたものであり、連合軍の移動弾幕射撃、間接機関銃射撃、“砲兵が耕し歩兵が占領する”というアイディアは戦前の参謀大学なら教えられなかったことである。両軍の革新は共に、新しいテクノロジーと新しい戦術の結晶であった。

これを踏まえてドイツ軍戦術の革新について、Gudmundssonはまず分権を挙げる。中央集権的なイギリス軍やフランス軍と違い、地方分権的なドイツ軍には下級将校も教範の精神に反しないかぎりアレコレ試す自由があった。

ドイツ軍を分権化した要素は自己啓発的な将校団である。ドイツ軍は英仏軍のように教範がきびしく規定したものではなく、もっと観念的なものだった。戦術問題で、ほかの軍隊では尋ねられる前に答えが用意されていたが、ドイツ軍では「どうやってあの丘を攻撃するのか」、「貴官は攻撃支援の機関銃をどう運用するのか」といった正解のない質問をする。これらの質問の習慣は、いまだ見たことのない状況に適応しようとする際に、ドイツ軍に明確な利点を与えた。

最後に工兵である。公式の突撃隊は歩兵ではなく工兵から生まれた。歩兵と違い、工兵は要塞戦を知悉しており、陣地戦の突破問題に対して先んずることができた。地雷の設置や架橋といった危険に満ちた仕事をしていたかれらは、戦争に対するロマンチックな感情から解放されており現実に即した対処ができたという。


イギリス軍の再評価
こうしたドイツ軍優位の状況のなか、1990年代以降イギリスの軍事史家の間でイギリス軍再評価の動きが強まってきた。

かれら再評価派の論点について三つ述べる。

一つ目は、第一次大戦の悲惨さのイメージはメディアが誇張してきたものであること。
二つ目は、戦術次元でイギリス軍はドイツ軍と比べてとくに劣っていなかったということ。
三つ目は、イギリス本国軍と自治領軍(オーストラリアやカナダなど)の間の戦闘効率もまた変わらなかったということである。

一つ目。第一次大戦当時の政治家や将校がいなくなっていった1960年代、ドキュメンタリーシリーズ「第一次世界大戦」が放映され、イギリス国民に衝撃をもって迎えられた。稚拙な指揮により、イギリス兵士がソンムやパッシェンデーレの泥沼の中で次々に死んでいく姿が流されたのである。

テレビ放映を巡って、リデルハートに代表されるような「イギリス陸軍を低く見る」評価を踏襲し強化する者たちと再評価派との間で論争となった。どちらの方とも自分たちの意見をテレビに反映させようとしたが、視聴者の方はイギリス軍無能説に傾いた。70年代、80年代を通じてソンムとパッシェンデーレの悲惨な死の物語が再生産され続けることになる。

1917年4月9日の英第17軍団の半マイルの前進や9月下旬のプルーマーの作戦、第3軍によるカンブレーへの突撃の成功といったイギリス軍の戦術的成長はほとんど共有されず、1918年最後の100日間の攻勢の成功も忘れ去られた。

しかしながら、再評価派はこう主張している。大戦前半たしかにイギリス陸軍は多くの失敗をしたが、かれらの「学習曲線」は1917年後半から急上昇し、敵が太刀打ちできないほどの優れた戦闘効率を有するようになったのだと。再評価派は90年代以降、イギリス大陸派遣軍とヘイグ元帥の名誉回復に努めている。

二つ目。ドイツ軍の優越は戦間期からずっと言われていることである。イギリス軍について、Gudmundssonは「熱狂的な小部隊リーダーシップを取ったが、戦術的には無能なスクールボーイだった」と酷評しているし、Denis Winterなどは訓練未熟、装備粗悪、低質な参謀業務に支援され、任務を行うに不十分な将軍たちに指揮されていた。「かれらは“なまくらの剣”だった」と断言している。

イギリス軍とは対照的に、ドイツ軍の優越でよく言及されているのが突撃隊である。

Gudmundssonが言っているように、工兵から派生して誕生した実験的な突撃隊は、試行錯誤の末それまでの戦術を根本から変えた。大戦前のような散兵線の前進ではなく、小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変えたのである。

攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器(機関銃、歩兵砲、塹壕砲、間接砲兵、火炎放射器など)が用いられ、手榴弾を装備した兵が突入して塹壕内を掃蕩した。戦闘指揮の焦点は少尉や下士官に移り、かれらは独自の判断で戦場を駆け巡るようになった。

突撃隊の手法を基礎として、1916年12月、ドイツ軍は1906年版歩兵操典にかわる「戦時徒歩部隊訓練教令」を発布する。これにより歩兵は公式にすべて突撃隊化された。

このドイツ軍の成功物語に対し、Paddy Griffithを主とする再評価派は真っ向から反論している。

Griffithは、ソンム攻勢の時点で英大陸派遣軍のドクトリンはすでにドイツ軍の“突撃隊戦術”とよく似たものを生み出していたのだと主張している。それはつまり「積極的に、できるかぎり前方へ突進すること。敵線後方を掃討し、固めること」である。

西部戦線で繰り返された小部隊による塹壕襲撃によって、イギリス軍も歩兵の浸透、近接火力支援の重要さ、少尉や下士官に指揮を移譲すること、そして“任務指揮”を学んでいった。ソンム戦はたしかに悲惨な結果で終わったが、戦術的には近接火力兵器としての迫撃砲、ルイス機関銃、小銃榴弾の価値を証明した。そしてそれは、歩兵が自らの意思で前進して戦闘することを可能としたのである。

これらの戦訓は、1916-17年冬を通して一般歩兵に波及していった。ソンムの経験はマニュアルにより具体化された。1916年12月には「師団攻撃訓練に関する訓令(SS135)」が、1917年2月には「小隊攻撃訓練に関する訓令(SS143)」が配布される。とくにSS143はドイツ突撃兵ハンドブックと言ってもよいような内容のものだった。

これまでのイギリス軍の評価は、大砲や戦車などテクノロジーを重視していたとしている。しかし、再評価派は、それよりもイギリス軍が“諸兵科連合”を重視していたのだと主張する。リデルハートやフラーらによって、1917年カンブレー戦や1918年アミアン戦での戦車の効果が強調されたが、戦車の効用は概して限定的だった。戦車は機械的信頼性の低さから、作戦が始まった途端から次々と故障していった。それに砲兵の直接射撃に弱かった。第一次大戦期の戦車は有効であったが、効果が持続しなかったのである。かれらは歩兵の支援兵科として甘んぜざるを得なかった。

再評価派は、カンブレーやアミアンの成功を戦車という狭い枠組みではなく、もっと大きな枠組みに捉え直している。大戦末期のイギリス軍は、砲兵の弾幕射撃、航空機による地上攻撃、戦車の突撃、これに主兵たる歩兵が協同して攻撃を遂行した。この諸兵科連合作戦により1918年最後の100日間の戦いで、ドイツ軍を押し潰すことに成功したのだという。

大戦終盤には、ドイツよりもイギリスの戦闘効率の方が勝っていたのだと再評価派は主張している。

三つ目。大戦終盤においてイギリス本国軍は消耗し切ってしまい、自治領軍が主役を務めるようになっていたのだとしばしば語られている。

1918年春季大攻勢で敗走するイギリス本国兵の姿を聞いて、オーストラリア人のモナッシュ将軍やオージーたちは本国兵を厳しい目で見るようになった。それからアミアン以後の100日間の戦いは、イギリス本国軍の名誉を回復する暇なく終わってしまった。

再評価派の見方では、そもそも戦術を改善していったのはイギリス大陸派遣軍の一部でしかない自治領軍ではなく、イギリス本国兵である。

それに加えて、Peter Simkinsは100日間の戦いでの師団攻撃例を統計的に分析し、自治領師団と多くの本国師団で攻撃成功率が同じほどであったことを証明している。

本国軍は1918年に1コ師団12コ大隊から9コ大隊に削減されていたが、自治領軍は12コ大隊を維持していた。さらに本国軍の師団はバラバラの大隊から寄せ集めで再編成され、自治領軍の師団と比べて団結力に欠けるところがあった。これらを考慮すれば――アミアンなど華々しい舞台に立っていた自治領軍に隠れて見えていないが――本国軍もよく戦っていた。


2015年現在、筆者の知るかぎり、再評価派の主張は全面的とはいかないまでも英語圏の多くの歴史家とライターに受け入れられている。

これら再評価派の主張は、デイヴィット・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦」『統合及び連合作戦の歴史的考察 平成26年度戦争史研究フォーラム報告書』や、ブライアン・ボンド『イギリスと第一次世界大戦 歴史論争をめぐる考察』により日本語でも知ることができる。


その後のイギリス軍
1920年代までイギリス陸軍は世界の最先端を走っていたはずなのであるが、その後失速した。

戦間期の軍縮ムードで軍事予算が減らされた。フラーら戦車将校は諸兵科連合を忘れ、戦車至上主義に走った。通信技術はずっと第一次大戦装備のままだった。独立軍種となったイギリス空軍は、陸軍の下で戦わされるがごとき近接航空支援を嫌がった。

1930年代後半以降、ドイツの軍拡に対抗して少しずつ改善されていったが、ドイツ軍が先に戦争を仕掛けてきたためになし崩しの形となり、イギリス陸軍は1944年にいたるまで戦術の改善に苦しみ続けることになる。




参考にしたと思われるもの。

参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第四巻)』偕行社、1925年。
参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第五巻)』偕行社、1926年。
デイヴィット・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦」『統合及び連合作戦の歴史的考察 平成26年度戦争史研究フォーラム報告書』47-56頁。防衛省防衛研究所、2015年。
Lupfer, Timothy. The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War. Fort Leavenworth, Kansas: Combat Studies Institute. U.S. Army Command and General Staff College, 1981.






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ロシア軍の戦術が~、ブルシロフが~、とやかましいので参考資料を。
臨時軍事調査委員月報第28号、露軍陣地戦要領より。アジア歴史センター、レファレンスコードA05021011000



[1916年夏までの教令に基づく]
第3節 攻撃実行
 第1款 歩兵突撃
 突撃実施の要領は、ほとんどフランス軍の模倣で、要約すれば次のとおり。[大戦中のロシア軍教令はフランス軍のものを参考にしていたらしい]

 突撃中隊は敵の塹壕を超越しつつ目標にむかい直進し、支援中隊はその後方約100歩に続行しこれを推進し、必要であれば突撃中隊を増加して突進を促進させる。
 第一線大隊が目標に到達したら、工兵は占領陣地を改築して防御施設をおこない、機関銃はすみやかに陣地に進出して占領を確実にする。
 塹壕掃蕩隊は突撃隊の突進した後方にあって塹壕内に残留し、頑強なる抵抗を持続して突撃隊の背後を攻撃する敵兵の掃蕩を任す。このため、手榴弾、携帯爆弾(?)、拳銃、短剣などを使用する。
 攻撃目標に到達したあとの動作は、フランス軍とやや趣きを異にするものがある。すなわち、塹壕掃蕩隊は任務を終われば占領陣地の確保に任し、突撃に任ぜし部隊はさらに占領陣地より勇進してもっともちかい敵砲兵に対し突進する。敵翼にむかって旋回攻撃を実施すべき部隊は、この二線の中間より進出し障害物を破壊しつつ強襲をおこなう。
 この間爾余の兵力は、携行防護体(?)を使用しつつ逐次前進して、さらに敵翼を迂回ないし背後に進出し、もって突破成果の拡張に努力する。

 第2款 機関銃の用法
 最近のロシア歩兵連隊は機関銃約30挺(鹵獲機関銃を含んでいるらしい。正規の編制は24挺であろう。)を有する。
 攻撃にあたり、連隊長は必要な方面の大隊長に機関銃を分属し、大隊長はまた必要な中隊にこれを分与する。そして二つの銃が同一陣地にあることはない。敵砲弾の集中によって同時に破壊されることを考慮してである。
 機関銃は400-800mで使用することを本則とするも、好目標が出現すれば1000mにおいて射撃することもある。
 つうじょう攻撃散兵と行動をともにし、すみやかに占領陣地に進入して確保に努力する。ときとして散兵線の後方高地より超過射撃によって歩兵の攻撃を援助することもある。

 第3款 歩砲の協同
 本月報第23号の「欧州戦争における露軍砲兵用法の概便その二」を参照せよ[これもアジ歴にある]。
 ロシア軍が歩砲兵の協同に関し、近時多大な力をもちいる理由は、その攻撃にますます砲兵威力の必要を認めた結果であろう。しかも比較的素質劣等なロシア軍としては、当然のことであろう。
『黄色い兵士達』p.190より、

「老人はごく淡々と、その勲章がミリタリー十字章といい、日本でいえば金鵄勲章に相当するものだと語った以外、うれしそうな顔一つしない。これが明治の軍人のマナーなのかと、私は頭の下がる思いだった」

この老人(三井真春美)のもらったという「ミリタリー十字章」、Military crossかと思ったがどうやらMilitary Medalのよう。ここに載っている。西洋な名前の中でポツンとMasumi Mitsuiとあるとなんだかシュールだ。
ロッヅ会戦は1914年11月東部戦線にて行われた。ドイツ第9軍はロッヅ付近のロシア軍を包囲殲滅せんとしたが、攻撃が成功しないばかりかその包囲翼たる第25予備軍団が逆包囲される。第25予備軍団は決死の敵中突破により危うくその難を脱した。

第25予備軍団は6日にわたる敵背後における行動間約4500名を喪失し、その半ばは第3近衛師団に生じた。2000以上の負傷者は退却する部隊とともに帰還し、その他負傷者も大部分は退却に先立ち後送された。また、ルシュコウの墓地に埋葬された戦死者は1000を超え、獲得した捕虜は16000、鹵獲火砲は64門に上る。



マッケンゼン・・・第9軍司令官
シェッフェル大将・・・第25予備軍団長
リッツマン中将・・・第3近衛師団長



シェッフェル大将の略歴

大将は1851年出生し、1870年7月士官候補生として歩兵第83連隊に入り、独仏戦役に従軍し、のち陸軍大学校を経て参謀将校となり、累進して近衛軍団参謀長、近衛擲弾兵連隊長、参謀本部長、近衛歩兵第2師団長に歴任し、1908年歩兵大将に任ずるとともに第11軍団長(カッセル)に補せられ、1913年12月現役を退けり。開戦後1914年8月予備第25軍団長に補せられる。
p.82



フェースライン少佐は、4日以来断絶しありしフロンメル騎兵集団との連絡を通じ得たり。彼は興奮して戦闘指令所に来たりて曰く、

「閣下もはやフロンメル大将には期待するあたわず。該騎兵集団はわが軍団の西方約40キロのシャデック付近にありて、その中間には有力なる露軍あり。この情況はすでに軍司令部よりわが軍団に通報し得たるはずなり。しかるにただ依然として、『予備第25軍団は前進、前進、会戦の決はその軍団にかかる・・・・・・』」

大将その言を遮りて曰く

「這は宜しからず。本日まで予は安んじてフロンメル大将がわが軍団に近づきつつあることを信ぜり。いまやその期待は全然葬られたり。さて諸君、われらはフロンメルなしにその任務を達成せざるべからず。而して軍団はこれを貫徹すべし。近衛歩兵第3師団の攻撃は順調に進展しあり。予は予備第49師団もまた間もなく前進を再興すべしと信ず。チーゼンハウゼン中将は古武士(フルツワモノ)なるをもって断じて逡巡することなし。中将はすでにその師団を前進せしめあるべし」と。
p.107



リッツマン中将はシェッフェル大将に戦況を説明し、明日の攻撃続行は奏功の見込みありとの判断を述べたり。大将は、リッツマン中将の確信と旺盛なる意気とに満ちたる攻撃精神に感動せしも、大将は軍団の危険なる状況を説明しロッヅに対する戦闘を中止して東方に退却するの企図を告げざるを得ざりき。リッツマンはこれに答えて曰く、

「閣下がただいま説明せられし危険なる状況より脱兎するの途は予の確信ところにおいては北方ノウォソルナに向かい突破するの一途あるのみ。本日驚嘆すべき勇敢を発揮せるわが近衛師団は突破を敢行すべし。明日さらに新鋭の意気をもって前進せん。わが部下はなお大なる活動をもってすべき力を蔵す。予はわが師団をもって北方に突破すべきを確証す。予に2ないし3連隊を予備として配属せられたし。おそらくは予備第50師団を可とせん。同師団の兵力はこれより甚だしく大ならざるべし。しからば明日ウィオン・ナニイン――ミレスツキーの露軍戦線の背後を突破し第20軍団との連絡を回復すべし。これわが軍唯一の救済手段なり」
p.134



リッツマンはさらに曰く

「閣下、ふたたびブルゼチニイに向かい前進せんとするは同意しがたし。けだし吾人の前進経路をふたたび踏むはあたかも退却のごとく見ゆるをもってなり。かくのごとくんば無智なる兵は退却なりと思いこれがため軍隊の士気を害うべし。各人は前進の信念を保持せしめざるざるべからず。吾人もし北方に血路を開かば各人はこの信念を保持すべし。また閣下は南方および東方より前進中なるがごとき露軍に対しいかに切り抜けんと欲せらるるや? ノウィコウはその大騎兵団をもってわれらの前途を要しあり。阻止せられ、かつ殲滅せらるるの危険はむしろ敵軍中に孤立するにいたるべき該方面に多く、直路北方第20軍団が提携せんと待ちつつある方面に比しその危険はるかに大なり。閣下、予に予備第50師団をあたえらるれば予は突破を成就すべし。予にしてもし不幸突破に失敗するとも必ずやわが勇敢なる近衛師団および予は比類なき栄誉ある最後を遂ぐべし。閣下、これ予の意見なり。予はこれを採用せられんことを望む」

と、シェッフェル大将はリッツマン中将の希望に輝く軒昂たる意気に満足を覚えつつ、その意見具申は多くの利点を有するごとく感ぜしをもってさらに熟考すべく、決心の確定は近く到着すべき軍命令をもって行うべきを告げてリッツマン中将のもとを辞せり。

リッツマン中将は「幸福と戦勝を祈る」と述べて軍団長と別れ、自己の計画の成功を確信し意気揚々として司令部に帰り、幕僚に向かいて曰く

「諸君、明払暁北方ノウォソルナに向かい第20軍団方面に突破せんとす。明日は大なる勝利か、しからずんば光栄ある殲滅あるのみ」

と。中将の力強き言々は幕僚の心胆を衝き、かれらは愉快げに命令の起草に着手せり。
pp.135-36

(ただし突破方面は軍命令によりブルゼチニイに変更した)



シェッフェル大将は命令を反復朗読せしめて曰く

「諸君、ご覧ごとくいまや作戦の重点は転移せり。万事は第20軍団を主体とするにいたり、孤立包囲のわが軍団は救援を受くるあたわず。かえって第20軍団を援助するを要す。これ実に厳粛なる戦争の実相なり。まったく第20軍団はわが軍団よりもさらに困難なる状況にあるものと思惟せらる。わが軍団はもっとも絶望すべきものにあらず。否、その反対なり。われらは突破せんとし、また突破せざるべからず。われらはわれら自体の包囲を離脱するのみをもってはいまだ足れりとせず。第20軍団を援助し、かつ救済せざるべからず、前進!!」
pp.138-39



(リッツマン)中将心中平かならず。すなわち謂えらく

「軍団命令の部署はかんたん明瞭なり。しかれどもその実施は不可能なり。そもそも予備第25軍団は主として若年の志願兵よりなり、すでに莫大の損害をこうむり、あまつさえ数日来の悪戦苦闘によりすでに力尽きたり。いまもしその実力を算定せばすこぶる過大に失すべきを知らざるべからず。腕と眼とが疲労し果てて用をなさざるとき、銃は無価値なり。しかるに露軍は新鋭なる兵力をもって各方面より近接しあり。しかも近くわが軍を増援するものは絶無なり。ノウォソルナに向かいしならんには第20軍団と手を握り得たるなり。東方に向かう退却は壊滅を招くのみ。予備第25軍団はいまや絶望の淵に沈殿しあり。本夜かしからざるも明朝は敵より包繞せらるべし。露軍はすでに漸次包囲を緊縮しあり。軍団の運命は風前の灯なり。死か、降伏か、鮮血に斃るるか、しからずんばシベリアに流さるるかあるのみ。しかれども近衛歩兵第3師団の健在はなお絶望を要せず。否、師団は軍団の運命を既倒より救出し得べし。師団はすでに多大の損害をこうむり、銃数多くも4千を過ぎず、かつ将校の大部を失えり。しかれども厳として存在す。予は軍団を救わんとす。予は本日なおブルゼチニイに突進せんとす。予はまず歩兵のみを掲げて進まん。砲兵は森林内の不良なる道路上を同行しあたわざるをもって、かえって前進を妨害す。傷者まず残置せざるべからず。これまことに情において忍び得ざるところなり。しかれども予が傷者とともに残るか、もしくはかれらを予と同行せしむるはともに全部の壊滅を招くものなり。予はまずわが歩兵とともに突破したのち、砲兵と傷者とを招致すべし。予はいまや敵の後方にありといえども窮地にある予備軍団のために活路を打開し得べし」
pp.172-73



(リッツマン)師団長は夜間戦闘においては後方にあるも適時報告を得るあたわずとて、剣を抜いて第6旅団の第一線とともに前進せり。彼は当時を回想し述べて曰く

「師団長は一時分隊長となれり。しかれども剣を掲げて敵に突撃し得たるは幸福なり・・・・・・予はたまたま工兵中隊内に入りあるを覚り、かつて1870年戦当時若年の近衛工兵少尉として従軍せし往時を回想し愉快を覚えり」
p.178



午前10時30分、2名の自転車兵司令部に来たり、その一名の下士官はシェッフェル大将に近づきて曰く、

「近衛歩兵第3師団報告」

大将は自らの耳を疑いて反問せしに、正しく同師団より来れる伝令なりしなり。

「近衛歩兵第3師団は、今暁4時ブルゼチニイに達し、市街戦ののち、同部落を占領せり」

と。口頭にて報告し、筆記報告を差し出せり。

フェースライン少佐これを朗読す。曰く、

「鉄道提の地域を午後6時45分、突撃により占領せり。ガルコウの敵を掃蕩す。ガルコウェクにおいては80の露兵を捕らえたり。師団は午前4時主力をもってすこぶる疲労してブルゼチニイに達し、これを占領せり。ヒンツェ中尉は家屋戦中戦死せり。師団には本日さらに前進を要求せられざることを切に請う」

と。これを耳にせる人々あたかも夢中にある心地して、少時言を発する者なし。ポーゼック大佐まず沈黙を破って、騎兵集団の東北方に向かう突破の命令を下されんことを意見具申す。人々の面上には喜色溢れ、伝令将校はこの吉報を各方面に伝達せんとして馬に跨り、両自転車兵はタバコの贈り物と質問とに包囲せられたり。
pp.194-5



25日朝マッケンゼンは大本営に報告して曰く、

「わが東翼に向かいし敵の反撃は打破せられ、該方面に攻撃せし露第一軍の部隊は壊乱せり・・・・・・わが東翼にはいまや危険存せず」
p.205



『ロッヅ会戦』



戦勝の意思および自信に支持せられつつフォン・マッケンゼン将軍は終始一貫頑強に敵軍の殲滅に邁進したり。しかるにかかわらず、完全なる最後の勝利を得るあたわざりしは敵軍の兵数においてきわめて優勢なりしに因れり。

将軍は11月11日歩兵11コ師団および騎兵5コ師団をもってまず露軍の歩兵4コ師団および騎兵5コ師団に対して前進を開始したり。しかるに作戦の終局したる11月25日にありては、独軍の兵数はとうてい野戦に運用すべからざる劣勢の国民軍5コ旅団を増加せるにすぎざりしも、敵軍の歩兵は26コ師団半に膨張したり。

これを要するにロッヅ付近にありては、独軍は歩兵約123コ大隊および大砲約800門をもって、露軍の歩兵204コ大隊および砲750門と戦い、ロヴィチェ付近にありては、独軍はわずかに歩兵約34コ大隊および砲100門をもって、露軍の歩兵160コ大隊および砲384門と戦えり。
p.1485



『独公刊戦史第21号』
Edward Erickson,"The official military histories of the First World War: A bibliographic essay" Middle Eastern Studies, 39(3) よりメモ。

・トルコ参謀本部はこれまでに第1次大戦の公刊戦史27巻を刊行している。

・1930年代半ば、トルコ参謀本部はオフィシャルアーカイブに基づく第1次大戦史を出版し始めた。今までのところ公刊戦史シリーズとして1877-78年露土戦争、1912-13年バルカン戦争、第1次大戦、トルコ独立戦争がある。くわえて、単巻として1600年代ハンガリーにおける戦役、オスマン海軍作戦、朝鮮戦争での派兵、近年では1973年キプロス平和作戦がある。

・これらは逐次改訂版が出されている。担当するのはトルコ参謀本部の「参謀本部軍事史及び戦略研究所(General Staff Military History and Strategy Institute)」、略してATASE(原語のGenelkurmay Askeri Tarih ve Stratejik Etutの略)である。担任するのは中将で、2003年現在ではトルコ空軍の将軍がこの職についている。ATASEは1コ軍事史部(branch)、2コアーカイブ部、1コ計画部、1コ出版部、軍事博物館、トルコ軍事史連盟、そして1コ戦略研究部(strategic studies branch)からなる。ATASEの各部で男女合わせて約400人が働いている。

・歴史家にとって残念なことに、トルコ軍事史は西側において使用されるのは稀である。なぜならATASEが出版したものはアンカラにあるATASEブックショップでのみ買うことが出来る。支払いはトルコリラでなければならず、本はメールやインターネットで買うことが出来ない。著者(エドワード・エリクソン)はアンカラの古書店を探し回り、10年かけてやっと第1次大戦史をコンプリートできた。

・第1次大戦公刊戦史は現代トルコ語(トルコはオスマン帝国で使われていたアラビア風文字を否定しローマ字を使っている)で書かれ、通常一巻で400-600ページある。なかには900ページを越すものさえある。これらすべて組織図とカラー地図を含む。大部分のものには重要文書のオスマントルコ語から現代トルコ語への翻訳がある。全27巻で第1次大戦におけるオスマン軍事を扱い、ほかにオスマン航空隊に関するものが4巻ある。

・各巻の簡略リストは以下の通り。

動員と開戦(全1巻)
ガリポリ戦線(全3巻)※原文がThe Gallipoli Frontだったのでこのように訳した。以下メソポタミア、カフカスなどもこれに準ずる。
メソポタミア戦線(全1巻)
シナイ、パレスチナ、シリア戦線(全2巻)
カフカス戦線(全5巻)※5巻もあるとはよっぽど悔恨が残る作戦だったんだろうか
ヨーロッパ戦線(全3巻)※ヨーロッパ篇が3冊でメソポタミアが1冊って…
アラビア戦線(全1巻)
休戦とその後(全1巻)
ロジスティクス(全1巻)
部隊全般史(全1巻)※General Armed Forces History
年表(全1巻)
年度毎作戦(全5巻)※年度毎の軍事行動
略史(全2巻)※ヨーロッパとカフカス
オスマン航空任務史(全4巻)




トルコ公刊戦史の信頼性についての話はまた今度…気が向いたら。略史のガリポリ篇は英語訳が出ている。入手したいのだけれど…

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