スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ロシア軍の戦術が~、ブルシロフが~、とやかましいので参考資料を。
臨時軍事調査委員月報第28号、露軍陣地戦要領より。アジア歴史センター、レファレンスコードA05021011000



[1916年夏までの教令に基づく]
第3節 攻撃実行
 第1款 歩兵突撃
 突撃実施の要領は、ほとんどフランス軍の模倣で、要約すれば次のとおり。[大戦中のロシア軍教令はフランス軍のものを参考にしていたらしい]

 突撃中隊は敵の塹壕を超越しつつ目標にむかい直進し、支援中隊はその後方約100歩に続行しこれを推進し、必要であれば突撃中隊を増加して突進を促進させる。
 第一線大隊が目標に到達したら、工兵は占領陣地を改築して防御施設をおこない、機関銃はすみやかに陣地に進出して占領を確実にする。
 塹壕掃蕩隊は突撃隊の突進した後方にあって塹壕内に残留し、頑強なる抵抗を持続して突撃隊の背後を攻撃する敵兵の掃蕩を任す。このため、手榴弾、携帯爆弾(?)、拳銃、短剣などを使用する。
 攻撃目標に到達したあとの動作は、フランス軍とやや趣きを異にするものがある。すなわち、塹壕掃蕩隊は任務を終われば占領陣地の確保に任し、突撃に任ぜし部隊はさらに占領陣地より勇進してもっともちかい敵砲兵に対し突進する。敵翼にむかって旋回攻撃を実施すべき部隊は、この二線の中間より進出し障害物を破壊しつつ強襲をおこなう。
 この間爾余の兵力は、携行防護体(?)を使用しつつ逐次前進して、さらに敵翼を迂回ないし背後に進出し、もって突破成果の拡張に努力する。

 第2款 機関銃の用法
 最近のロシア歩兵連隊は機関銃約30挺(鹵獲機関銃を含んでいるらしい。正規の編制は24挺であろう。)を有する。
 攻撃にあたり、連隊長は必要な方面の大隊長に機関銃を分属し、大隊長はまた必要な中隊にこれを分与する。そして二つの銃が同一陣地にあることはない。敵砲弾の集中によって同時に破壊されることを考慮してである。
 機関銃は400-800mで使用することを本則とするも、好目標が出現すれば1000mにおいて射撃することもある。
 つうじょう攻撃散兵と行動をともにし、すみやかに占領陣地に進入して確保に努力する。ときとして散兵線の後方高地より超過射撃によって歩兵の攻撃を援助することもある。

 第3款 歩砲の協同
 本月報第23号の「欧州戦争における露軍砲兵用法の概便その二」を参照せよ[これもアジ歴にある]。
 ロシア軍が歩砲兵の協同に関し、近時多大な力をもちいる理由は、その攻撃にますます砲兵威力の必要を認めた結果であろう。しかも比較的素質劣等なロシア軍としては、当然のことであろう。
スポンサーサイト
『黄色い兵士達』p.190より、

「老人はごく淡々と、その勲章がミリタリー十字章といい、日本でいえば金鵄勲章に相当するものだと語った以外、うれしそうな顔一つしない。これが明治の軍人のマナーなのかと、私は頭の下がる思いだった」

この老人(三井真春美)のもらったという「ミリタリー十字章」、Military crossかと思ったがどうやらMilitary Medalのよう。ここに載っている。西洋な名前の中でポツンとMasumi Mitsuiとあるとなんだかシュールだ。
ロッヅ会戦は1914年11月東部戦線にて行われた。ドイツ第9軍はロッヅ付近のロシア軍を包囲殲滅せんとしたが、攻撃が成功しないばかりかその包囲翼たる第25予備軍団が逆包囲される。第25予備軍団は決死の敵中突破により危うくその難を脱した。

第25予備軍団は6日にわたる敵背後における行動間約4500名を喪失し、その半ばは第3近衛師団に生じた。2000以上の負傷者は退却する部隊とともに帰還し、その他負傷者も大部分は退却に先立ち後送された。また、ルシュコウの墓地に埋葬された戦死者は1000を超え、獲得した捕虜は16000、鹵獲火砲は64門に上る。



マッケンゼン・・・第9軍司令官
シェッフェル大将・・・第25予備軍団長
リッツマン中将・・・第3近衛師団長



シェッフェル大将の略歴

大将は1851年出生し、1870年7月士官候補生として歩兵第83連隊に入り、独仏戦役に従軍し、のち陸軍大学校を経て参謀将校となり、累進して近衛軍団参謀長、近衛擲弾兵連隊長、参謀本部長、近衛歩兵第2師団長に歴任し、1908年歩兵大将に任ずるとともに第11軍団長(カッセル)に補せられ、1913年12月現役を退けり。開戦後1914年8月予備第25軍団長に補せられる。
p.82



フェースライン少佐は、4日以来断絶しありしフロンメル騎兵集団との連絡を通じ得たり。彼は興奮して戦闘指令所に来たりて曰く、

「閣下もはやフロンメル大将には期待するあたわず。該騎兵集団はわが軍団の西方約40キロのシャデック付近にありて、その中間には有力なる露軍あり。この情況はすでに軍司令部よりわが軍団に通報し得たるはずなり。しかるにただ依然として、『予備第25軍団は前進、前進、会戦の決はその軍団にかかる・・・・・・』」

大将その言を遮りて曰く

「這は宜しからず。本日まで予は安んじてフロンメル大将がわが軍団に近づきつつあることを信ぜり。いまやその期待は全然葬られたり。さて諸君、われらはフロンメルなしにその任務を達成せざるべからず。而して軍団はこれを貫徹すべし。近衛歩兵第3師団の攻撃は順調に進展しあり。予は予備第49師団もまた間もなく前進を再興すべしと信ず。チーゼンハウゼン中将は古武士(フルツワモノ)なるをもって断じて逡巡することなし。中将はすでにその師団を前進せしめあるべし」と。
p.107



リッツマン中将はシェッフェル大将に戦況を説明し、明日の攻撃続行は奏功の見込みありとの判断を述べたり。大将は、リッツマン中将の確信と旺盛なる意気とに満ちたる攻撃精神に感動せしも、大将は軍団の危険なる状況を説明しロッヅに対する戦闘を中止して東方に退却するの企図を告げざるを得ざりき。リッツマンはこれに答えて曰く、

「閣下がただいま説明せられし危険なる状況より脱兎するの途は予の確信ところにおいては北方ノウォソルナに向かい突破するの一途あるのみ。本日驚嘆すべき勇敢を発揮せるわが近衛師団は突破を敢行すべし。明日さらに新鋭の意気をもって前進せん。わが部下はなお大なる活動をもってすべき力を蔵す。予はわが師団をもって北方に突破すべきを確証す。予に2ないし3連隊を予備として配属せられたし。おそらくは予備第50師団を可とせん。同師団の兵力はこれより甚だしく大ならざるべし。しからば明日ウィオン・ナニイン――ミレスツキーの露軍戦線の背後を突破し第20軍団との連絡を回復すべし。これわが軍唯一の救済手段なり」
p.134



リッツマンはさらに曰く

「閣下、ふたたびブルゼチニイに向かい前進せんとするは同意しがたし。けだし吾人の前進経路をふたたび踏むはあたかも退却のごとく見ゆるをもってなり。かくのごとくんば無智なる兵は退却なりと思いこれがため軍隊の士気を害うべし。各人は前進の信念を保持せしめざるざるべからず。吾人もし北方に血路を開かば各人はこの信念を保持すべし。また閣下は南方および東方より前進中なるがごとき露軍に対しいかに切り抜けんと欲せらるるや? ノウィコウはその大騎兵団をもってわれらの前途を要しあり。阻止せられ、かつ殲滅せらるるの危険はむしろ敵軍中に孤立するにいたるべき該方面に多く、直路北方第20軍団が提携せんと待ちつつある方面に比しその危険はるかに大なり。閣下、予に予備第50師団をあたえらるれば予は突破を成就すべし。予にしてもし不幸突破に失敗するとも必ずやわが勇敢なる近衛師団および予は比類なき栄誉ある最後を遂ぐべし。閣下、これ予の意見なり。予はこれを採用せられんことを望む」

と、シェッフェル大将はリッツマン中将の希望に輝く軒昂たる意気に満足を覚えつつ、その意見具申は多くの利点を有するごとく感ぜしをもってさらに熟考すべく、決心の確定は近く到着すべき軍命令をもって行うべきを告げてリッツマン中将のもとを辞せり。

リッツマン中将は「幸福と戦勝を祈る」と述べて軍団長と別れ、自己の計画の成功を確信し意気揚々として司令部に帰り、幕僚に向かいて曰く

「諸君、明払暁北方ノウォソルナに向かい第20軍団方面に突破せんとす。明日は大なる勝利か、しからずんば光栄ある殲滅あるのみ」

と。中将の力強き言々は幕僚の心胆を衝き、かれらは愉快げに命令の起草に着手せり。
pp.135-36

(ただし突破方面は軍命令によりブルゼチニイに変更した)



シェッフェル大将は命令を反復朗読せしめて曰く

「諸君、ご覧ごとくいまや作戦の重点は転移せり。万事は第20軍団を主体とするにいたり、孤立包囲のわが軍団は救援を受くるあたわず。かえって第20軍団を援助するを要す。これ実に厳粛なる戦争の実相なり。まったく第20軍団はわが軍団よりもさらに困難なる状況にあるものと思惟せらる。わが軍団はもっとも絶望すべきものにあらず。否、その反対なり。われらは突破せんとし、また突破せざるべからず。われらはわれら自体の包囲を離脱するのみをもってはいまだ足れりとせず。第20軍団を援助し、かつ救済せざるべからず、前進!!」
pp.138-39



(リッツマン)中将心中平かならず。すなわち謂えらく

「軍団命令の部署はかんたん明瞭なり。しかれどもその実施は不可能なり。そもそも予備第25軍団は主として若年の志願兵よりなり、すでに莫大の損害をこうむり、あまつさえ数日来の悪戦苦闘によりすでに力尽きたり。いまもしその実力を算定せばすこぶる過大に失すべきを知らざるべからず。腕と眼とが疲労し果てて用をなさざるとき、銃は無価値なり。しかるに露軍は新鋭なる兵力をもって各方面より近接しあり。しかも近くわが軍を増援するものは絶無なり。ノウォソルナに向かいしならんには第20軍団と手を握り得たるなり。東方に向かう退却は壊滅を招くのみ。予備第25軍団はいまや絶望の淵に沈殿しあり。本夜かしからざるも明朝は敵より包繞せらるべし。露軍はすでに漸次包囲を緊縮しあり。軍団の運命は風前の灯なり。死か、降伏か、鮮血に斃るるか、しからずんばシベリアに流さるるかあるのみ。しかれども近衛歩兵第3師団の健在はなお絶望を要せず。否、師団は軍団の運命を既倒より救出し得べし。師団はすでに多大の損害をこうむり、銃数多くも4千を過ぎず、かつ将校の大部を失えり。しかれども厳として存在す。予は軍団を救わんとす。予は本日なおブルゼチニイに突進せんとす。予はまず歩兵のみを掲げて進まん。砲兵は森林内の不良なる道路上を同行しあたわざるをもって、かえって前進を妨害す。傷者まず残置せざるべからず。これまことに情において忍び得ざるところなり。しかれども予が傷者とともに残るか、もしくはかれらを予と同行せしむるはともに全部の壊滅を招くものなり。予はまずわが歩兵とともに突破したのち、砲兵と傷者とを招致すべし。予はいまや敵の後方にありといえども窮地にある予備軍団のために活路を打開し得べし」
pp.172-73



(リッツマン)師団長は夜間戦闘においては後方にあるも適時報告を得るあたわずとて、剣を抜いて第6旅団の第一線とともに前進せり。彼は当時を回想し述べて曰く

「師団長は一時分隊長となれり。しかれども剣を掲げて敵に突撃し得たるは幸福なり・・・・・・予はたまたま工兵中隊内に入りあるを覚り、かつて1870年戦当時若年の近衛工兵少尉として従軍せし往時を回想し愉快を覚えり」
p.178



午前10時30分、2名の自転車兵司令部に来たり、その一名の下士官はシェッフェル大将に近づきて曰く、

「近衛歩兵第3師団報告」

大将は自らの耳を疑いて反問せしに、正しく同師団より来れる伝令なりしなり。

「近衛歩兵第3師団は、今暁4時ブルゼチニイに達し、市街戦ののち、同部落を占領せり」

と。口頭にて報告し、筆記報告を差し出せり。

フェースライン少佐これを朗読す。曰く、

「鉄道提の地域を午後6時45分、突撃により占領せり。ガルコウの敵を掃蕩す。ガルコウェクにおいては80の露兵を捕らえたり。師団は午前4時主力をもってすこぶる疲労してブルゼチニイに達し、これを占領せり。ヒンツェ中尉は家屋戦中戦死せり。師団には本日さらに前進を要求せられざることを切に請う」

と。これを耳にせる人々あたかも夢中にある心地して、少時言を発する者なし。ポーゼック大佐まず沈黙を破って、騎兵集団の東北方に向かう突破の命令を下されんことを意見具申す。人々の面上には喜色溢れ、伝令将校はこの吉報を各方面に伝達せんとして馬に跨り、両自転車兵はタバコの贈り物と質問とに包囲せられたり。
pp.194-5



25日朝マッケンゼンは大本営に報告して曰く、

「わが東翼に向かいし敵の反撃は打破せられ、該方面に攻撃せし露第一軍の部隊は壊乱せり・・・・・・わが東翼にはいまや危険存せず」
p.205



『ロッヅ会戦』



戦勝の意思および自信に支持せられつつフォン・マッケンゼン将軍は終始一貫頑強に敵軍の殲滅に邁進したり。しかるにかかわらず、完全なる最後の勝利を得るあたわざりしは敵軍の兵数においてきわめて優勢なりしに因れり。

将軍は11月11日歩兵11コ師団および騎兵5コ師団をもってまず露軍の歩兵4コ師団および騎兵5コ師団に対して前進を開始したり。しかるに作戦の終局したる11月25日にありては、独軍の兵数はとうてい野戦に運用すべからざる劣勢の国民軍5コ旅団を増加せるにすぎざりしも、敵軍の歩兵は26コ師団半に膨張したり。

これを要するにロッヅ付近にありては、独軍は歩兵約123コ大隊および大砲約800門をもって、露軍の歩兵204コ大隊および砲750門と戦い、ロヴィチェ付近にありては、独軍はわずかに歩兵約34コ大隊および砲100門をもって、露軍の歩兵160コ大隊および砲384門と戦えり。
p.1485



『独公刊戦史第21号』
Edward Erickson,"The official military histories of the First World War: A bibliographic essay" Middle Eastern Studies, 39(3) よりメモ。

・トルコ参謀本部はこれまでに第1次大戦の公刊戦史27巻を刊行している。

・1930年代半ば、トルコ参謀本部はオフィシャルアーカイブに基づく第1次大戦史を出版し始めた。今までのところ公刊戦史シリーズとして1877-78年露土戦争、1912-13年バルカン戦争、第1次大戦、トルコ独立戦争がある。くわえて、単巻として1600年代ハンガリーにおける戦役、オスマン海軍作戦、朝鮮戦争での派兵、近年では1973年キプロス平和作戦がある。

・これらは逐次改訂版が出されている。担当するのはトルコ参謀本部の「参謀本部軍事史及び戦略研究所(General Staff Military History and Strategy Institute)」、略してATASE(原語のGenelkurmay Askeri Tarih ve Stratejik Etutの略)である。担任するのは中将で、2003年現在ではトルコ空軍の将軍がこの職についている。ATASEは1コ軍事史部(branch)、2コアーカイブ部、1コ計画部、1コ出版部、軍事博物館、トルコ軍事史連盟、そして1コ戦略研究部(strategic studies branch)からなる。ATASEの各部で男女合わせて約400人が働いている。

・歴史家にとって残念なことに、トルコ軍事史は西側において使用されるのは稀である。なぜならATASEが出版したものはアンカラにあるATASEブックショップでのみ買うことが出来る。支払いはトルコリラでなければならず、本はメールやインターネットで買うことが出来ない。著者(エドワード・エリクソン)はアンカラの古書店を探し回り、10年かけてやっと第1次大戦史をコンプリートできた。

・第1次大戦公刊戦史は現代トルコ語(トルコはオスマン帝国で使われていたアラビア風文字を否定しローマ字を使っている)で書かれ、通常一巻で400-600ページある。なかには900ページを越すものさえある。これらすべて組織図とカラー地図を含む。大部分のものには重要文書のオスマントルコ語から現代トルコ語への翻訳がある。全27巻で第1次大戦におけるオスマン軍事を扱い、ほかにオスマン航空隊に関するものが4巻ある。

・各巻の簡略リストは以下の通り。

動員と開戦(全1巻)
ガリポリ戦線(全3巻)※原文がThe Gallipoli Frontだったのでこのように訳した。以下メソポタミア、カフカスなどもこれに準ずる。
メソポタミア戦線(全1巻)
シナイ、パレスチナ、シリア戦線(全2巻)
カフカス戦線(全5巻)※5巻もあるとはよっぽど悔恨が残る作戦だったんだろうか
ヨーロッパ戦線(全3巻)※ヨーロッパ篇が3冊でメソポタミアが1冊って…
アラビア戦線(全1巻)
休戦とその後(全1巻)
ロジスティクス(全1巻)
部隊全般史(全1巻)※General Armed Forces History
年表(全1巻)
年度毎作戦(全5巻)※年度毎の軍事行動
略史(全2巻)※ヨーロッパとカフカス
オスマン航空任務史(全4巻)




トルコ公刊戦史の信頼性についての話はまた今度…気が向いたら。略史のガリポリ篇は英語訳が出ている。入手したいのだけれど…
第1次大戦全般 2010.07.07 (水)
オスマン帝国参戦過程についての論文
よくまとまっていると思う。この分野では、『平和を破滅させた和平』という良著もある。



Gallipoli: The Ottoman CampaignGallipoli: The Ottoman Campaign
(2010/06/19)
Edward J. Erickson

商品詳細を見る


Erickson氏はcombat effectivenessという言葉が好きだねー。



めずらしいことに『自1914年至1918年 近東に於ける前大戦の考察』がスーパー源氏の検索でヒットする。

樋口正治氏は仏訳の本も読んで書いたんじゃないかなーと思ったり。日仏併記したりしてるし。

著者自身も認めているように、推敲があまい。あとWikiPに書いてしまってそのままにしてるけど、セルマン・パク会戦での「オスマン軍は、イギリス軍が左翼に向かって包囲行動を行っているとの誤報を信じて後退したが、翌日間違いに気付き旧陣地に逆戻りした。英軍はこれをオスマン軍の増援部隊と勘違いし、クート方面に退却した」はエリクソン氏の本に書かれていないのでおそらく誤り。オスマン側兵力数もエリクソン氏とは食い違うところも少なからず。

にもかかわらず、オスマン軍寄りな視点と日本語で書かれているという点、さらに戦況図が多いという点で十分評価され得る。とくにクッテル・アマラ戦については詳しく、第2章イラク地方の運動戦(戦役全体)が約70ページなのに、第3章クッテル・アマラの包囲戦は同じぐらいページを割いてる。第4章結論の戦役全体に関する考察もなかなか。

戦役全体を見ていくなら、おそらくパレスチナ戦役よりもメソポタミア戦役のほうが面白い。ただメソポタミア戦役はスターがいないw
ヌーレディンもハリルもキャーズム・カラベキルも途中でいなくなっちゃうし、英軍だとメソポタミアのアレンビーにあたるモード将軍がチフスにかかって途中で死んじゃうし…



1918年パレスチナ。
オスマン突撃兵
スチームヘルメットをかぶってるのはドイツ兵ではなくオスマン突撃兵。



1921年パレード(らしい)。
parade.jpg
閲兵しているのはイスメット・パシャ。
ギリシャ・トルコ戦争時にもトルコ軍は第1突撃大隊(1. HUCUM TABURU)を編成した。サカリア川会戦にも投入され、多数の死傷者を出した。



Axis History Forumにもオスマン帝国板?があるんだね。知らんかった。



1915年写真(AWM=アメリカ戦争博物館?より)。
inf1.jpg
都市部でのパレード?出陣式?
コンスタンティノープルか?
トルコ帽ではなく、略帽(?)をかぶっている。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。