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メモ



1994年12月、チェチェンの首都グロズヌィへと進入するロシア兵は戦闘を予期していなかった。市街地戦に適した訓練や編成をしていなかった。かれらは、戦車を見せびらかせばチェチェンの反乱兵は戦意喪失するのと高を括っていた。

チェチェン兵は、ただの暴徒なのではなく、ソ連の元軍人が多数参加していた。

独ソ戦でソ連軍は――レニングラード、スターリングラードなどを経て――市街地戦の戦いを洗練させていった。こうした悲惨な教訓にもかかわらず、市街地戦は防者に多くの利点を与えている。ソ連軍は4:1の優勢、あるいは6:1の優勢を確保することを推奨していた。

身動きが取れなくなるよう街を封鎖してしまうこと、事前に情報、偵察、臨機に適した計画をソ連軍は学んだ。しかしチェチェンではそれを忘れていた。

建物を一個一個占領する際には、戦車数両に支援された歩兵中隊を多数臨時編成してしらみつぶしに占領する。まず階段のある通路、ここから下から順に制圧していく。個々の兵は、手榴弾と爆薬を大量に持たされた。

これら貴重な戦訓は大戦後しばらく教育によって共有されていた。しかしながら、ソ連軍がヨーロッパでNATOとの大規模な戦闘を予期するようになるや、市街地戦の教育はされなくなっていった。ソ連軍人は、西欧市民は市街地戦を嫌がるだろうと見ていた。ゆえにソ連は二つのパターンを想定していた。

一つ目は街が防御されている場合。このときはバイパスしてしまえばいい。二つ目は無防備都市としてしまう場合。このときは街のど真ん中を行進して通り過ぎてしまえばいい。

さらにチェチェンが分離独立しようとしたとき、市街地戦の戦法を忘れたソ連/ロシア軍は混乱の極みにあった。軍紀は弛緩し、訓練は疎かになり、プロ意識を低下させていた。チェチェン軍を過小評価し、自軍の能力を過大評価していた。結果は悲惨なものとなる。

ロシア軍はしばしば航空機の火力を頼ったが、よく訓練されていない航空兵はチェチェン兵ではなく頻繁にロシア兵を吹き飛ばしている。飛行機だけが同士討ちの原因ではない。展開する戦闘部隊がよく訓練されていないこと、様々な軍種の違う兵が展開していたにもかかわらずうまく協同できていなかったこと、これらのために、ある将校の意見によれば、ロシア軍の損害の60%が同士討ちによるものとさえ言われている(第一次チェチェン紛争)。




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