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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.11.22 (日)
冬コミ参加します!!


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『新月旗はためく下で 第1次大戦における中東戦線史』
A4、本文112ページ、頒布価格1,000円予定。

・目次
第1章 開戦への道    1
第2章 初期作戦    7
第3章 決戦のとき    24
第4章 英土激戦    53
第5章 絶頂と凋落と    70
第6章 終わりから始まりへ    86
参考資料1  第1次大戦と戦術    89
参考資料2  各国陸軍について    96
参考資料3  かれらはなぜ戦ったのか    99
参考文献    100

このブログで連載していたものの加筆修正版です。
「オスマン陸軍のヨーロッパ遠征」と巻末参考資料を新たに書き、地図も自作して、写真も少しはさみました。

2日目(30日)、西も18b「RNVR花組」と、おなじく2日目の東ホ37b「Pencdiraht」の2か所で頒布させていただくつもりです。本人はたぶんスペースに常駐していないと思いますが、会場には行きますので。

よろしくお願いします。
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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.06.28 (日)
オスマン帝国が敗戦に追いこまれたのは、アレンビー将軍の攻勢が決定打だったわけではない。ザンデルス率いる電撃軍集団はアナトリアのアダナにあらたな防御線を設け、もう一合戦するつもりでいた。

ナーブルスの悲劇と呼ばれたメギット会戦よりも、サロニカ戦線の連合軍が戦線を突破してきていることの方が致命的であった。1918年9月、やる気をなくしたブルガリアが降伏し、トラキア地域ががら空きとなった。しかし、首都を守るべき戦略予備がオスマン軍にはもうないのである。ヨーロッパ側の首都防衛部隊はカフカース、メソポタミア、シリアへと次々に引きぬかれて、ものの抜け殻であった。

1918年10月5日、タラート・パシャの新内閣は休戦の可能性を模索することを決定した。13日、マドリードでスペインを介して休戦しようとしたがこれは失敗した。ついでクート戦の捕虜タウンゼント将軍が交渉を仲立ちした。これはイギリスとフランスを刺激し、ムドロス島で休戦交渉に入った。

1918年10月30日、戦艦アガメムノンの甲板にてオスマン側代表が休戦協定に調印。ここに中東戦線は終了した。



イギリスはオスマン軍が崩壊寸前であると見ていたが、休戦時でもオスマン軍は25コ歩兵師団、4コ要塞司令部、3コ臨時歩兵師団が健在で、ほかの中央同盟国とはちがい士気崩壊せず指揮統制を維持していた。手ひどく痛めつけられていたとはいえ、約100万の人員がなお作戦遂行中であった。

オスマン帝国は降伏したあと、イギリス側のスケジュールに従い、1885-93年生まれの者が11月28日より動員解除され、1897-99年生まれの者は1919年1月6日より動員解除されはじめた。合わせて将校約10,000名、兵264,339名が1月22日までに復員した。3月末までにさらに337,615名が動員解除され、61,223名のみが常設として軍に残った。

オスマン参謀本部は、1919年1月21日に平時編制計画を確定した。計画によれば、軍は9コ軍団、20コ師団よりなる。アラブ人などを核とした部隊は解散し、完全にアナトリアトルコ人主体の構成に変化した。

平時編制の各師団は銃兵1,540名、機関銃36、砲8よりなる。1919年の春が過ぎることには、常設の野戦軍として約41,000名、砲256門が所属していた。参謀、学校、守備員なども合計すると将兵61,000名を算した。

オスマン帝国の財政を反映してかなりの少人数となったが、総動員となると250,000名まで膨れあがる。小銃791,000挺、機関銃2,000挺、砲945門がアナトリアにストックされており、この武器をもとに別の師団をあらたに編成することも可能であった。



大戦におけるオスマン帝国は延べ287万人を動員し、このうち77万人が死亡あるいは行方不明となった。西欧諸国から色眼鏡で見られつづけているが、オスマン軍は大戦でよく戦った。

イギリスのカーヴァ―元帥によれば、イギリス帝国の264,000名がオスマン帝国との戦闘でなんらかの損害を被ったという。別の見方をすれば、イギリス帝国の150万人、ロシアの約100万人、フランスやアルメニアの数万人を、オスマン帝国は引き付けていた。ヨーロッパ人はオスマン軍の戦力を過大に見積もりがちだが、大戦間のオスマン軍はどこの戦域でも数的劣勢にさらされていた。にもかかわらず、ゲリボル、クート、ガザで勝利を収めている。そして、主戦場である西部戦線から敵の努力を分散させ、中央同盟国として立派にその任務を果たした。しかしそれが報われることはなかった。



Edward Erickson は第一次大戦におけるオスマン陸軍の神話として5つ挙げている。

神話1:オスマン軍の作戦のほとんどは、ドイツ人が指揮するか計画していた。
ゲリボルでの第5軍(オットー・リーマン・ザンデルス)やパレスチナの電撃軍集団(フォン・ファルケンハインやフォン・クレス)を除いて、ドイツ人がオスマン軍大部隊の戦闘指揮をとることはほとんどなかった。軍団レベルやそれより下では、ほとんどの指揮官と参謀はオスマン将校で占められていた。フォン・シェレンドルフやフォン・ゼークトは参謀総長第一補佐であって、参謀総長ではない。大戦中のほとんどの期間エンヴェルが参謀総長を兼務していた。軍レベルの参謀長としてドイツ人が配置されることがあっても、プランニング作業のほとんどは、よく訓練されたオスマン参謀将校によって行われていた。

神話2:オスマン帝国には記録があまり残っていない。
事実はまったくの反対である。トルコ参謀本部は第一次大戦に関する文書150万点を保存しており、他のトルコ国家機関でも100万以上の文書を保存している。しかしながら、これら膨大な記録の多く、とくに政治・軍事的に敏感な話題のもの(たとえばアルメニア問題)は、調査者には利用できない。

神話3:オスマン軍部隊は、戦闘の重圧に負けて脱走や崩壊の傾向があった。
これはメギッド戦の印象から言われるのかもしれない。メギッド戦はほとんどが追撃戦で、大量の捕虜をとるのに理想的な状況であった。しかしながら、メギッド戦は特殊な事例であり普遍的なものではない。総崩れになることはほとんどなく、はげしい敵の圧力下で後退戦闘を行える能力を十分に有していた。また、脱走が起きるのは戦闘外の行軍のときなどであり、一般的に集団脱走は非トルコ人部隊で起きたことだった。

神話4:エンヴェル・パシャと「統一と進歩」委員会は失った領土、とくにトルコ人の地域を取り返そうとしていた。
凡トルコ主義はエンヴェル個人の考えであって、優先的な戦争目的ではなく、オスマン帝国で真に有力な戦略思考となったことはいつぞなかった。オスマン政府は、失った領土を取り返すよりも国内経済を好転させることに主眼を置いていた。1918年のカフカース遠征は、凡トルコ的な戦略目標というより、"一瞬の好機をとらえたユニークなもの"以外の何物でもない。

神話5:戦闘においてオスマン軍は尋常ではない大損害に苦しんだ。
この見解は1914年サルカミシュ戦や1915年ゲリボル戦に基づくものであろう。しかしながら、中東戦線の戦闘の強烈度は、西部戦線より低かった。死傷者の半数以上を占めていた機関銃や火砲は、西部戦線よりも少なかった。それに、戦役(キャンペーン)は文字どおり季節に沿って行われていた。ヨーロッパのように年がら年中戦っていたわけではない。

私見によりもう2つ加えたい。

神話6:"アラビアのロレンス"はオスマン帝国の戦争遂行に重大な危機をもたらした。
まったくの誤りである。軍事面でいえば、パレスチナで主力をなしたのは英エジプト遠征軍であり、アラブ反乱軍ではない。鉄道線の破壊活動も成果を上げるのは、メギッド戦前の1918年8月以降である。また、アラブ反乱についても、アラブ人たちは部族ごとに去就を変えており、シリアに住む民のなかにはオスマン帝国側につきアラブ反乱軍と交戦している者さえいる。

神話7:オスマン帝国のなかでケマルのみが際立った業績を上げた。
いくらケマルが名将とはいえ、軍隊が一人の影響力で勝つことは不可能である。ゴルツやイッゼトやエンヴェルなどの軍制改革なしには戦勝の基礎はなかったであろうし、士官学校出の参謀将校が組織をうまく運営していなければ軍隊を動かすこともままならなかったであろう。それにセルマン・パクとクートの大勝に、ケマルはなんら関与していない。



オスマンの将兵は、ゲリボルでケマルが「私は諸君に死を命じる」と言ったとおり――うち凍えるカフカースの地で! 灼熱の砂漠メソポタミアの地で! 古き宿命の地パレスチナで! 峻厳なるゲリボルの地で!――文字どおり死んでいった。

兵は無学だがよく戦い、とくに防御戦において粘り強く戦った。士官学校出の将校はドイツ式によく訓練されており、戦略・作戦次元での部隊運用を難なくこなす能力を有していた。ムスタファ・ケマルを筆頭として、オスマン帝国はエサト・パシャ、シェヴキ・パシャ、イッゼト・パシャ、ハリル・パシャ、フェヴズィ・パシャ、ヴェヒプ・パシャなど多数の有能な戦闘指揮官を輩出している。

しかしながら文字どおり国力を傾けて戦った結果は、帝国の崩壊である。

いまや、アラビア半島は失われ、シナイ、パレスチナ、シリアも失われた。もはや帝国にはアナトリアとトラキアしかない。西部では、ギリシャが今こそ古きローマの地を取り返さんとし、あわよくば故地コンスタンティノープルをわが物にせんと息巻いている。東部では、虐殺された同胞の仇を果たさんとアルメニア人が殺気めいている。この状況下で、大戦で鍛えあげられた名将勇卒はふたたび焼け跡から立ちあがり、敵の肝をつぶしこれを打ち倒していくこととなるのである。

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奪還したイズミルに入城するトルコ国民軍(ウィキペディア・コモンズ)




ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.06.21 (日)
1911年3月2日発刊、ドイツ兵事週報第29号所載



トルコ国にては歩兵科予備将校教育の目的をもって今回あらたに予備将校学校をイスタンブルに設置せり。

同校にては生徒をもって1コ中隊または2コ中隊を編成し、その学科過程は3学期に区分し、第1学期においては10週間ないし12週間学科および実科を授け、第2学期においては8週間ないし10週間中隊教練を実行し、第3学期においては他兵科との連合演習を実行す。

また第1学期の末にいたり生徒は毎週2回馬術の教育を授け、第3学期においては掩堡構築の実地演習をなすものとす。而して学期末にいたり試験および兵監に依れる検閲をおこない、卒業証書をわたし、卒業生は予備の士官候補者たるべきものとす。ただし、試験に及第せざる者は将来下士として使用す。



偕行社『偕行社記事』第428号、1911年
ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.06.14 (日)
前回のあらすじ



バグダードをイギリス軍が占領して以来メソポタミアでは小競り合いをくりかえしていた。1918年3月時点でオスマン軍はなにも変わっていなかった。第6軍司令官ハリル・パシャは増援を受けとっておらず、脱走、病気、イギリス軍との戦闘で継続的に戦力をすり減らしていた。一方のイギリス軍の方は、1917年12月18日に司令官のモード将軍がなんとチフスで病死してしまい、かわりにマーシャル将軍が指揮を取った。

イギリス軍は1918年3月より前進しはじめ、英軍の右翼に展開する土第13軍団を側面攻撃した。4月末まで攻撃をつづけたものの、実りは少なかった。ここでルーデンドルフ攻勢の余波がメソポタミアにもやってくる。メソポタミアの英軍は西部戦線への増援のために戦力を引き抜かれ、そのため攻勢をやめた。

戦力に隔絶の差があるオスマン軍としては僥倖であった。かれらは1918年に入ってから食料の不足に悩まされ、悲惨な状態で夏季を過ごした。7月、ハリル・パシャはカフカース軍集団に転任となり、第6軍司令官には第13軍団長のアリ・イフサン・パシャがなった。1918年10月時点で第6軍は小銃8,000、火砲50、騎兵300を越えず、食料は不足しており、飛行機もなく、まったくひどい状態だった。

1918年10月、オスマン帝国降伏の気配を嗅ぎつけたイギリス政府は、メソポタミアのイギリス軍に火事場泥棒的に攻勢を命じた。マーシャル将軍は2コ歩兵師団を主力として10月23日より包囲攻撃をかけ、オスマン軍を敗走させて10,000以上の兵を捕虜に取った。11月1日、イギリス騎兵旅団がモースルを占領。オスマン第6軍と同第13軍団はいまだ健在であったが、休戦条約が結ばれ、メソポタミアにおける戦争も終了した。



近東に於ける前大戦の考察 (1940年) (日イ資料〈第4号〉)近東に於ける前大戦の考察 (1940年) (日イ資料〈第4号〉)
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Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)
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Edward J. Erickson

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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.06.07 (日)
「太宗曰く、『朕、千章万句を観るに、他方を以ってこれを誤らすの一句に出でざるのみ』と」
[太宗は言った、「私は多くの兵法書に目を通してきたが、その要諦はさまざまな策を講じて敵の誤りを引き出す――このことに尽きるように思うのだが」]
『李衛公問対』

「塹壕戦という前提条件があったため、錠前を破壊するのに歩兵と重砲が必要であった。しかしそのあとで戦いの正常な条件が回復されてしまうと、アレンビーの戦力全体のごく小部分にすぎなかった機動的要素――騎兵、飛行機、装甲車、アラブ軍――によって、勝利が達成されたのである。しかもそれは物理的力によってではなく、機動性を敵の士気をくじくように活用したことによって、達成されたのである」
リデルハート『第一次世界大戦 下』 , 235-236.



1918年8月に入ってからのことである。アレンビーは隷下の各軍団長に新たなる攻勢構想を話してみた。これはイギリス政府の要望からではなく、アレンビー自らの意思である。それどころか政府は西部戦線が気になって仕方なく、辺境パレスチナでの新攻勢にあまり興味を示さなかった。だが遠征軍司令官はあくまでもやる気だった。

9月9日、アレンビーは「部隊命令第68号」を発布。 これにもとづき各軍団も作戦命令を発した。9月12日「砂漠乗馬軍団作戦命令第21号」、13日「第20軍団作戦命令第42号」、17日「第21軍団命令第42号」。これら命令は徹底して秘匿され、大隊長クラスでさえ攻撃の2、3日前に知ったほどであった。

作戦の骨子は以下のとおりである。まず優勢な友軍航空部隊が航空優勢をとる。ついで航空隊はオスマン軍の通信施設を破壊して相互連携を困難にさせる。地上では、内陸部正面の第20軍団と東面のチャーター隊が正面の敵を拘束する。そして海岸部の第21軍団が正面を突破し、つづく砂漠乗馬軍団がこれに呼応して突破正面より進撃する。前年の第3次ガザ戦では内陸部から突破したが、今回は海岸部より行うこととなった。

メギッド戦において、アレンビーひきいる英エジプト遠征軍は、大きくわけて第20軍団、第21軍団、砂漠乗馬軍団、チャーター隊、英空軍パレスチナ旅団からなっていた。第20軍団と第21軍団は歩兵主体で、砂漠乗馬軍団は乗馬兵中心である。チャーター隊はオーストラリア・ニュージーランド乗馬師団を主力として、それに歩兵部隊が付与された部隊である。ドイツ軍の春季大攻勢にともなう転出と補充により、遠征軍ではインド兵の比率が高くなっていた。総計歩兵5万6千、騎兵1万千、火砲552門である。


対する電撃軍集団の防御計画はいたってシンプルで、敵に土地を渡すことなくその場で固守するというものである。陣地を奪取された場合は、すぐさま予備隊による反撃を行う。しかし作戦次元で見ると、もしものときに拠るべき第2線陣地がなく、固守か死かいずれかしか選択がなかった。

ザンデルスのこの選択はやはり大敗北を喫してしまったために、批判が強い。しかしそれならば機動防御を実行することが出来たのだろうか。輸送機関は貧弱極まりなく、物資は届かず、敗勢により士気も落ちていた。機動防御をなせる機動力があったのだろうか。英エジプト遠征軍が大攻勢の兆しを見せていたために、オスマン参謀本部はあわててパレスチナへの戦力移送を行ったが、間に合わなかった。

イギリス側資料は、ザンデルスがガリポリのときと同じように、メギッド戦の初動で誤りを犯したとしている。すなわちアレンビーの欺騙によって、ザンデルスは内陸部から主攻が来ると勘ちがいしたというのだ。ところがエドワード・エリクソン退役中佐は異なる見解を示す。

1. 「1918年9月17日オスマン情報部は第8軍の対面に5コ歩兵師団およびフランス軍支隊がいることを特定していた」とトルコ公刊戦史が記述している。そのうえ、オスマン情報部は第7軍対面に2コ師団、ヨルダン川前線に2コ乗馬師団がいたと推定している
2. 9月16日に第2カフカス騎兵師団がテル・カレムに到着しはじめた
3. 9月17日に第46師団がイギリス軍突破正面である第22軍団の予備に配置転換している
4. 第8軍戦区に3コ重砲兵大隊も配置されていた
5. 海岸部にはとくに経験豊富な師団が配置されていた

以上より、オスマン軍はイギリス軍の攻撃方向を把握していたと書く。

「要するに、電撃軍集団はアレンビーの欺騙によって奇襲されていたわけではなく、オスマン軍の指揮官たちはいまにも起こりそうな攻撃の戦力や場所に気がついていたことをこの証拠は示している。リーマン・フォン・ザンデルスに利用可能な数少ない予備と増援は西へと移動し、アレンビーが望んだ東へは動かなかった。そのうえ、重要な沿岸の平原は実戦経験豊富な2コ師団、軍重砲兵によってつよく重視されていた。かの地区はオスマン軍の前線のなかでもっとも強固に防御された場所になっていたのである」
Ottoman Army Effectiveness in World War 1, 146.

メギッド戦前の電撃軍集団は、大体にわけて第4軍、第7軍、第8軍、ドイツ・アジア軍団からなっていた。ドイツ・アジア軍団は第8軍の隷下にある。1918年8月時点での歩兵戦力は40,598名(小銃19,819挺、軽機関銃273挺、重機関銃696挺)だった。アレンビーはオスマン軍の戦力を歩兵3万2千、騎兵3千、火砲370門と推定している。 部隊配置は、軍集団司令部がナザレ、海岸部の第8軍はテル・カルム、内陸部第7軍はナーブルス、内陸部左翼の第4軍はエス・サルトに司令部を置いていた。

当時電撃軍集団は物資不足と兵力不足に悩まされていた。ザンデルスはこう回想する。

「各オスマン師団は平均して小銃(rifles)1300であった。1コ大隊は小銃130-150だった(各師団は9コ歩兵大隊を有する)。180に達するものもあれば、病気その他によって100まで減っているところもあった。
脱走者の数は最近数週間で危険なまでに増えた。第8軍では、8月15日から9月14日までに1100人を数えている。捕まえられたときのお決まりの弁明は、食事が十分ではない、下着がないか履物がない、服がぼろぼろ、である。
騎兵連隊は概して兵1300を数えていた。かれらの馬は牽引動物や荷駄動物に比べればまずまずであった。砲兵は全体的に見て良好であった。しかし、前に述べたように、この牽引動物の状態では広範囲の移動は不可能なようなものであった」
Five years in Turkey, 270.



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メギット戦図(ウィキペディア・コモンズ)

攻勢に先立ち、1918年9月16日アラブ軍はダルアーとアンマンの鉄道線を破壊した。さらに17-18日の間、英20軍団がオスマン軍中央に陽動攻撃をかけた。これらの作戦は、オスマン軍部隊の移動を阻害して主攻撃をあざむくのが狙いであった。

「すべてはまったく静かで平和な夜だった…砲兵が火線を前方に噴出した4時30分までは」

英帝国支援騎兵旅団の旅団副官だったチャールズ・ハービーはこう回想している。1918年9月19日午前4時30分、恐ろしい轟音が唸った。イギリス砲兵はオスマン軍陣地に1分間に千発以上の砲弾を浴びせかけた。オスマン砲兵は即座に反撃したが、イギリス砲兵の強烈で正確無比な砲撃の前にはかなり見劣りしたものとなった。

イギリス砲兵は弾幕をオスマン軍第2線陣地に移し、これに応じて英第21軍団歩兵は第1線陣地に殺到、早々に第1線陣地を奪取した。イギリス空軍およびオーストラリア航空団はオスマン軍司令部、通信施設を爆撃。さらに地上部隊の襲撃もおこなった。

「19日午前3時30分(イギリス時間4時30分)、海岸から山岳部に面する第8軍右翼の全線に対し、凄まじい音を立てて砲撃が始まった。
夜明けの少し後、第7軍及び第8軍司令部小屋の頭上、個々の軍団司令部のテントの頭上、そしてAffulehの軍集団の中央通信室の頭上にイギリス飛行隊が現れた。そして飛行高度を低くして爆撃し、通信線を破壊した。海岸からヨルダンの全地区において第8軍は対空砲を2丁しか有しておらず、このため敵飛行機の任務は簡単なものとなった。数多くの鉄道線が早朝アラブ軍によって破壊された」
Five years in Turkey, 275.

午前7時までにイギリス軍は海岸線のオスマン軍陣地を破壊し、オスマン軍後方に進撃する騎兵部隊の通過を準備した。イギリス野砲兵は前方に進出、騎砲兵は騎兵部隊の前進のために準備した。重砲兵は砲撃を続け、広範囲にわたって射弾幕を降らせた。

イギリス軍は突破正面に歩兵24,000、火砲約400を集中していたが、対するオスマン第22軍団は歩兵2,000、火砲約100しかいなかった。第22軍団兵は強烈な砲撃に圧倒され、さらにイギリス歩兵が前進してくるやたちまち苦戦を強いられた。午前8時、第22軍団はさいごの予備である第17工兵大隊を前線へ投入し、その親部隊であるジェマルの第8軍は予備の第46師団(歩兵約1,000)を第22軍団戦区へ投入した。

午前8時50分、第8軍は絶望的な状況報告をザンデルスに送っている。

「右翼における劣勢のため本官は大いなる苦難に直面しております。(第22軍団隷下の)第7師団は敗走。第22軍団はEl Tireより後退中で、軍団の火砲のほとんどは失われました。該軍団は態勢の保持に努めておりますが、軍団長は包囲を危惧しています。敵は、われらの反撃にもかかわらず、前線を突破中です。(第22軍団に隣接する)第19師団はKefri Kasimにむかって後退中。救援なくば作戦は不可能であります」

この報告が届いたかどうかは不明であるが、ザンデルスは数少ない予備である1コ歩兵連隊と軍直轄の数コ工兵隊を派遣した。しかしこれら増援はすぐに消滅した。少なすぎ、そして遅すぎたのである。

午前10時頃にはイギリス2コ騎兵師団が突破口より進撃していった。騎兵部隊にはオスマン軍の背後に回るよう遠い目標が設定されていた。すなわち、ザンデルスのいるナザレの軍集団司令部、メギッド、そしてエスドレロン平原の北口である。できることならザンデルスも捕虜とすることが望ましい。

オスマン軍右翼は崩壊し、ザンデルスは第7軍にイギリス軍を阻止しつつ後退することを命じた。20日午前4時30分、イギリス騎兵はナザレにまで達し、ザンデルスはあやうく捕虜となりそうになった。ムスタファ・ケマル指揮下の第7軍はヨルダン峡谷へと後退していき、左翼第4軍は現陣地を占領したままであった。ちりじりとなった第8軍の兵もゆっくりと後退していった。今やオスマン軍には包囲の危機が迫っていたが、沿岸部の後方には作戦予備はいない。21日から23日にかけて第3軍団が後衛としてツブスからヨルダン峡谷まで死闘を繰り広げ、友軍部隊の退却を助けた。

9月25日頃までにヘファ、アッコ、メギッドと主要都市が次々に陥落した。イギリス騎兵の最後の至福のときであった。湧き上がる戦勝の予感に興奮を覚えつつ、前へ前へと進撃していった。27日頃までには、イギリス騎兵はヨルダン峡谷の線を突破し、オスマン軍をダルアーへと追いやった。これにより戦場はシリアへと移ることとなった。

アレンビーはオスマン軍に対して間断なく圧力を加え、その騎兵はダマスカスへと突進した。ザンデルスはダマスカスに第3軍団を配置し、これに第24、第 26、第53師団および第3騎兵師団を付与して防備を固めた。しかし連続する退却と戦いに疲れた第3軍団はイギリス騎兵を拒止することあたわず、10月1日ダマスカスは陥落した。勇敢なるオスマン第3騎兵師団は殿(しんがり)として戦い、他の兵はさらに北方へと敗走した。ザンデルスも司令部をバールベックに後退させた。

1918年10月6日、ザンデルスをめぐる戦略状況は絶望的といっても過言ではなかった。オスマン第8軍は壊滅し、その司令部は解散。第3軍団(第1、第11師団)、第20軍団(3コ師団)、第48師団のみが戦闘可能だった。10月始めに第43歩兵師団が増援として送られてきたのは幸いだったが、電撃軍集団は火砲のほとんどを喪失していた。しかもガリポリで敵を阻んだ峻厳な地形はここにはない――希望的観測など出来る要素がどこにもなかった。

アレンビーは攻勢を止めない。イギリス軍はベイルートを占領し、さらにさらに北へと前進した。10月16日、オスマン第4軍がフムスで包囲されて壊滅した。オスマン第48歩兵師団はアレッポの南、ハマーでイギリス騎兵を止めようとしたが、やはりかなわず、10月19日陥落した。25日、イギリス騎兵とアラブ北部軍はアレッポまで到達した。これがシリアでの戦いの終わりである。

10月26日、ザンデルスはアナトリアのアダナまで軍集団司令部を後退させていた。ここにカフカースや他の地域からの増援が集結中であった。オスマン領の中心部において最後の決戦を行うべくザンデルスは準備していたが、1918年10月30日オスマン帝国が休戦条約を結んだことによって戦争が終わった。ザンデルスはイスタンブルへの召喚を受け、告別の辞を述べたのちケマルにその指揮権を移譲し、去った。



メギッド作戦が開始されてから38日間でイギリス軍は約560キロ前進し、オスマン電撃軍集団を壊滅に追いこんだ。イギリス軍の損害は戦死者782名、負傷者4179名、行方不明者382名である。イギリス側はオスマン軍捕虜7万6千名、火砲360門、機関車89両を獲得した。

オスマン軍の敗因としてよく言われることに、士気の低下がある。実際、捕虜となったオスマン兵は自軍の士気の低下、お粗末な兵站、戦争それ自体に対する支援不足に不平を漏らしている。イギリス情報部はアナトリア、カフカース、ヨーロッパの戦闘師団に比べてパレスチナの兵員の質が悪くなっていることを指摘している。つづいて、オスマン軍捕虜の士気はガリポリ戦のときより低下しており、アラブ人はとくに悪いとしている。

士気以外に3つの点をEdward Ericksonは指摘している。戦略次元では戦場がカフカスやガリポリのように守りやすい土地ではないこと、作戦次元ではイギリス軍が欺騙と集中によって前線付近での軍団規模の部隊の移動を可能にしたこと、戦術次元では1917年から1918年の間にイギリス軍がその戦術を進化させていたことである。

ザンデルスはガリポリ戦しか大戦での実戦経験がなく、いかなる犠牲を払っても陣地を固守するとの認識をメギッド戦時にもまだ持っていた。一方オスマン軍人に嫌われたファルケンハインは大戦中盤のヴェルダン戦、ルーマニア戦役に参加し、戦争の様相が変わっていっていることを認識していた。つまり土地に執着することなく強力な反撃によって敵を粉砕するという大戦後半のドイツ軍の考えにシフトしていたのである。ファルケンハインの指揮していた第3次ガザ戦では、すべての師団レベルの部隊が壊滅するという惨状は避けられた。しかし、柔軟な防御でなく固定的な防御をしていたメギッド戦でのオスマン軍はイギリス騎兵の大進撃を許してしまったのである。



中東戦線史という遠回りをしたが、わたしが当初から書きたかったのは第3次ガザ戦とこのメギッド会戦である。会戦の研究において、メギッド戦のあつかいは英語圏で格別なものがある。日本ではまったく知られていないが、この会戦は末永く語りつがれる戦いとなるだろう。



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参考文献がやたら多いのはよそで書いたやつを集成したからです。

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