「突撃する武士たち」

戦国後期の武将の役割として、第一線で功名を遂げようとすることと、部隊の監督をすることの二つがある。しかしながら、部隊の監督する立場でありながら突撃してしまうような武将もまたいた。



ときは1584年4月9日、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った長久手合戦である。

徳川家康の本隊3,000と井伊直政2,000が、池田恒興4,000と森長可3,000(と堀秀政3,000?)が対戦した(「本多藤四朗覚書」、陣立書)。森長可が鉄砲に撃たれて倒れるやそれを契機として徳川軍の侍がつぎつぎに突撃した。そのなかになんと一部隊長である井伊直政もいた。

藤十郎殿も御越し候へと言葉をかけられ候間、兵部殿同前に参候。兵部殿ざいをとり被申候へば、押し返しそのまま敵を追い崩し申候。拙者より先へ兵部殿乗り込み、そのまま突き倒し高名被仕候
「水野勝成覚書」
※藤十郎は水野勝成のこと。
※兵部は井伊直政のこと。

彦三郎は先へ進むところに、井伊万千代黒母衣の武者と組て居るを見て、ことばをかけ見合るときに、万千代ことなく組み伏せければ助くるに及ばず、彦三郎申しけるは、人数を頼りたるもの自分の働きは無用なり、跡の人数を集められよとてなお先へ進む
「安藤直次覚書」
※彦三郎は安藤直次のこと。
※井伊万千代は井伊直政のこと。

長久手合戦の緒戦で一番功名を挙げた水野勝成は、井伊直政のお供をしていた。すると直政は勝成に先んじて馬で乗り込んでいって敵を突き倒してしまった。そのまま組み伏せて首を取るところで安藤直次と出会う。直次は「部隊長が突撃してどーすんのよ」とたしなめた。

「安藤直次覚書」はともかく「水野勝成覚書」に書かれてあるので信憑性のあるエピソードである。



つぎは1615年大坂夏の陣、5月6日道明寺の戦いである。水野勝成隊3,200は、徳川方の一部隊として後藤又兵衛隊と戦闘を交えた。伊達正宗隊など兵数にまさる徳川方は、後藤隊を押し崩した。このとき水野勝成はみずから先頭に立って追い崩した。

片山の山を下へ追い崩し申しとき、先に拙者、二番に中山勘解由、三番に水野美作守、四番目村瀬左馬
「水野勝成覚書」

一番に自分、二番に中山勘解由(公儀目付)、三番に息子、四番に村瀬左馬助(公儀目付)というわけである。水野勝成は翌日の決戦でも最前線で戦っている。

勝成はいくさのあとで家康から「指揮官として戦えと釘を刺しておいたのになんで自分で突っ込むの」とオコラレタ。



水野日野守覚書」『史籍集覧』第16冊
長久手町史編さん委員会編『長久手町史 史料編六 長久手合戦史料集』長久手町役場, 1992.
水野勝成公報恩会編『物語 水野勝成』福山市文化財協会, 1967.
グラフィック図解 真田戦記 (歴史群像シリーズ特別編集)
「家康公、長久手のうち猪越原の東南山へ9日丑の刻着陣なされ、岩崎山の城のほうにあたって、鉄砲の音城攻め事々しく聞こえ候ゆえ、山をくだり早落城と見えて火の手あがり、別本にいう、ずいぶん御急ぎ被成候ところに勝川と申すところにて、(朱書)通邦曰く、本文は猪越原の東南山、権堂寺の山に着御、その山をくだり夜もあくるというなり、後人下文に御物具のことあるを見て、勝川のことと思うは妄なり、本文と齟齬す
稲葉通邦「参考長久手記」1850年

「小牧御陣長湫御合戦記」の「家康公長久手のうち猪越原の東南の山へ9日の暁寅の刻着陣被成候」の"東南の山"が権道山として解釈されている。

長久手の別動隊、池田、森、堀、三好にくわえて「小牧御陣長湫御合戦記」のとおり長谷川を入れた方が良いらしく、また「甫庵太閤記」にやられたという顔をしている。

陣立書を参考にすると、

池田勝入 2,000
池田元助 2,000
森長可 3,000
堀秀政 (A)3,000 (B)5,000
長谷川秀一 (A)2,300 (B)2,500
三好秀次 4,000
木下利匡 200
木下祐久 350

計16,850-19,050になる。堀と長谷川は長久手合戦前の数字が現存していないので
(A)長久手合戦直後のもの
(B)長久手合戦の損耗と回復を考えて8月以後のもの
で補った。
渡辺図書頭「小牧御陣長湫御合戦記」の成立年代に悩まされる。『長久手合戦史料集』は渡辺図書頭のことを渡辺宗綱としているようだが、本当に彼なのか? 水野勝成に話を聞いたとあるのも成立年代早さを見れる。しかし図書頭になってたのだろうかちょっとわからない。

よく分からんサイトだが渡辺宗綱は1626年に図書助になったとある。図書頭は江戸中期の渡辺貞綱になってる。郷土史家が書いた『岩崎城の戦』で「小牧御陣長湫御合戦記」の成立を江戸中期としているのもこれのせいなのだろうか。

『甫庵太閤記』と「小牧御陣長湫御合戦記」比較すれば、両者に同じような文章が見られる。元ソースが同じか、どちらかがパクってるかだけど、どちらかといえば太閤記のほうが切り取りしているように読める。そうすると太閤記成立より前のものなので江戸初期成立となる。

江戸中期成立の小牧戦話(比較的ましな部類の合戦記)では、「小牧御陣長湫御合戦記」を切り貼りした文があるし、ほかの合戦記にも切り貼りしたようなものがある。ただ、図書頭だけなぞなのだ。

白林山など地名がついていっていくのは尾張藩士が江戸期に調べて足していったものだろうと考えられる。徳川本隊による権道山越えは諸本になく(江戸末期のモノでも書かれてない)、小牧陣始末記の独創なのかもしれない。

太閤記「池田勝入斎は、家臣の人々に次のように提案した。小牧山の敵軍は日増しにその数を増しているように見える。とするなら、三河方面にはおよそ兵力もあるまい。このすきを幸いに三河に侵入して、国内の村々に放火するならば、小牧山に集まる遠江、三河両国の敵軍の敗北は確実にちがいない。」

さんざん引っ掻き回したが、池田の謀議の記述は太閤記以前には見つけられない。つまり、この記述があると太閤記以降の書と推測できる。長久手戦直後に書かれたとされる丹羽家軍功録などの丹羽本はこの記述があるので、後世の者が増補して史料的価値を損じてしまっている。

同時代史料としての松平家忠日記と江戸期に改訂された家忠日記増補がどちらあるが、増補の方はカス扱い。

戦国期の騎兵用法で、相手の備を崩す目的で乗馬襲撃が行われている。想像するにむずかしい。逆に翼側援護や偵察部隊として独立運用はしていない。

「山の尾崎より水野太郎作一騎乗下し、(森)長可備へ乗込み申候、大久保次郎右衛門忠佐、渡辺弥之助下沢より乗込み申候とひとしく、武蔵守備乱立、群々と成候時、榊原八兵衛鑓入んと進み候て、渡辺六郎左衛門直綱引留、鑓は未た早ひそ、早りて鑓を入れは、物際て勢いぬける物也、我次第に致と引合候」

「小牧御陣長湫御合戦記」による長久手合戦の描写。森長可の備に乗馬襲撃をかけたあとに鑓を入れようとしたらまだ早いと言われる云々。この鑓は徒歩の武士ユニットだろうな。

あと「足軽は鑓の垣、鑓は侍の垣、侍は旗の垣、御旗は勝負の無之物成れは、御跡に被置、御馬の先には、金の扇小纒計」という記述があり軍制が断片的に分かる。この鑓は鑓足軽なのだろうか。
 本編に長久手の戦いをすでに詳説した。これは大部が「小牧御陣長湫御合戦記」にもとづく記述で、元来の説とは相容れない部分がおおい。いまここに「小牧陣始末記」により長久手合戦を再現して、もって参考に具す。両軍の行動の概略をしめし、差異をとくに記述する。



 小牧対陣中の1584年4月4日。池田勝入父子は主だったものを集めて評議があった。「敵家康は小牧に山にはいり、日々人数を増している。領国の三河・遠江は空になっているだろう。ここに軍隊を進軍させ、討ちとるようにすればどうであろうか。この方法は上方筋では中入り(注1)の手段というものだ」という意見があった。勝入はこれは妙案だと思い、秀吉に提案した。

 秀吉は最初しぶったが、許可した。そしてこう命令した。

 「まず三河筋に行くまえに篠木・柏井に砦をかまえ、かたく備をもうけ、小事にはこだわってはならない。小敵をあなどってはならない。迅速に岡崎に進出して放火し、すみやかに撤退すべし」

 4月6日夜半、池田を主とする別働隊25,000-30,000は楽田を出発した。家康はこの動きを知らなかった。7日10時、別働隊は篠木・柏井に到着した。(注2)同日16時、篠木・柏井の民が家康に注進した。さらに同夜、森隊に潜入していた忍びより報告があり、家康は別働隊撃滅を決意した。曰く、「敵が大中入りをするならば、味方は小中入りの手段をすべし」と。

 4月8日20時、徳川軍先遣隊4,200(一説に3,000)は小牧を出発し、春日井原をへて竜泉寺の下手をとおり小幡城へ入場した。同22時、家康と信雄の本隊は兵12,500をともなって小牧を出発し、勝川をへて9日0時に小幡城へ到着した。軍議のあと先遣隊は小幡を発して稲葉村まで行き、夜が明けるのを待った。本隊は2時に出発し、大森印場―稲葉村―権道寺山の順に大回りした。(注3)

「小牧陣始末記」説長久手合戦ブログ用2!


 8日22時、羽柴軍別働隊は三河・遠江にむけて出発した。夜明けまでに、三好秀次隊は白林山、堀秀政隊は金萩原、池田・森隊は岩崎に到着していた。池田・森隊は9日6時より岩崎城を攻め、8時には陥落させた。

 9日夜明け後、徳川軍先遣隊は三好秀次隊を襲撃し、壊滅させた。追撃するうちに、桧根山までひきかえしてきた堀隊と8時ごろ激突した。堀隊は先遣隊を破りこれを追撃した。そのとき富士ヶ根山にひるがえる家康の馬印をみて、三好隊の残部と堀隊は池田・森隊を見捨てて撤退した。10時ごろ、引きかえしてきた池田・森隊と徳川本隊が仏ヶ根付近で衝突し、徳川軍が大勝を得た。

長久手合戦!




 以上、「小牧陣始末記」を主に観察した。本来は微に入り細を穿つ内容である。くわしすぎてあやしいぐらいである。「小牧御陣長湫御合戦記」とのおおきな違いは以下のとおりである。

1.信雄が出陣しているか否か
2.徳川本隊の移動経路
3.堀隊の去就

 1.は諸書ちがいがあり、参謀本部が信雄の同行を書いているのでひろく敷衍している。「小牧御陣長湫御合戦記」、「三河物語」、「小牧戦話」などは、信雄は小牧残留としている。
 
 2.「小牧陣始末記」は大森印場―稲葉村―権道寺山の大回りを書いている。「小牧御陣長湫御合戦記」も「家康公長久手のうち猪子石原の東南の山へ、9日の暁寅の刻御着陣」と書いており、おおきく東南をとれば権道寺山南付近と解釈も可能だろう。
 しかし、かなりの急行軍となる。『日本戦史 小牧役』は、徳川本隊が小幡―権道寺山北まで11kmを夜間行軍2時間で駈けぬけたとしている。戦国の烈士なら可能だとも思われるが、移動だけでくたくたにならないか。

 3.堀隊が早期撤退したか否かは、長久手合戦物でも意見が分かれている。「小牧御陣長湫御合戦記」は、堀隊が池田隊と合流したあとモブと化しているので、疑問はのこる。







1.「小牧陣始末記」は中入りをこう説明する。「この中入りの手段というは、異国本朝の書に見えず、いにしえより中入りの手段ということなし。織田信長の仕○出して毎度勝利を得る。しかれども家臣らはいずれも中入りの手段をして仕損ず。すでに賤ヶ岳にて柴田が中入りをして敗走す。すれば常体の人のおよばぬ手段なり」。織田信長の戦例のどれが中入りに当たるのか不明である。そもそも中入りの概念自体、戦国期にあったのだろうか。
2.「小牧陣始末記」は、秀吉の命令により別働隊が2日間篠木・柏井に滞留し、これが大いなる誤りであったとする。
3.『日本戦史 小牧役』は夜明けを4時30分ごろとしている。『応用戦術ノ参考』p.252は、新暦5月東京の日の出を4時30分としており、当を得ている。長久手方面では、4時30分から5時までに、夜が明けたと思われる。「小牧陣始末記」はもっとおそい時間を日の出と想定していると思われ、参謀本部は時間を調整している。『日本戦史 小牧役』は、徳川本隊が小幡―権道寺山北までの11kmを夜間行軍2時間で駈けぬけたとしている。なかなかの見物だろう!


 1583年、柴田一族が滅亡したあと、北陸の前田氏は加賀の石川・河北の二群と能登を有し、となりに領地を接する佐々成政は越中一国を有していた。1584年、小牧の陣となるや、前田氏は秀吉を支持し、佐々も秀吉に同調していた。しかし佐々成政はしだいに織田徳川連合軍のほうになびいていったとみられる。

 8月22日、佐々成政は村井又兵衛隊約1,500をもって加賀越中の朝日山を攻撃し、ここに佐々軍と前田軍とのあいだで戦端がひらかれた。(注1)

 前田利家は金沢城に位置し、また七尾城に兵3,000を置き、津幡城には前田秀継隊100、鳥越城には目賀・丹羽隊500を配し、加賀・能登・越中の三国が境を接する末森城は奥村・千秋・土肥隊1,500が守備していた。佐々成政側は加賀国境の倶利伽羅峠付近の砦に佐々・野々村隊2,000、井波城に菊池隊1,000、守山城に神保隊4,000を配していた。自身は富山城をを拠点としていた。(注2)

 前田利家は秀吉より専守防衛を命ぜられその行動を掣肘された。これを尻目に佐々成政は兵8,000をもって能登に進攻し、9月9日末森城を包囲した。成政自身は城より8キロはなれた坪井山に本陣をかまえた。守兵200名が城外に出撃してきたが、攻め方はこれを全滅させた。

 9日14時、金沢の利家に末森城からの急報がもたらされた。利家は夜までに津幡城に移動し、諸将を招集して軍議をひらいた。老臣は末森城を見捨てて篭城することを進言したが、利家はこれをさえぎり「人は一代、名は末代。いやしくも武士たるもの、名を惜しむべし」と救援の決意はかたかった。

 10日夕暮れ、前田利家隊2,500は、津幡城を出撃した。佐々軍の神保隊4,000はこれを妨害しようとしたが、おくれて利家に追及しようとした前田兵500とぶつかり、目的を果たせなかった。11日早朝までに前田隊は末森城まで到達し、城の正面に対峙する佐々軍に背後から襲いかかった。佐々勢は壊滅的打撃をうけ753名も戦死したという。(注3)

 坪井山の佐々成政は自軍の敗北を知り旗本を立てなおしたが、末森城には前田隊が入り込んでしまっていたため、撤退を開始した。撤退途中に無人の鳥越城を占領して手兵を残置して引いていった。

 これを境に攻守逆転して、前田勢が攻勢に転じたがじきに豪雪となり、両軍の行動は停止した。


 末森城の戦いは小牧陣に連動して起こった戦いだが、別個の会戦として完結してしまっている。8月に丹羽勢が羽柴軍の援軍として東海地域におもむくが、末森城合戦の影響か、しばらくして北陸に帰還している。




 1584年、東国においては北条軍と反北条軍(佐竹、結城、宇都宮ら)が沼尻で激突していた。7月下旬に停戦にいたったあと、北条勢は徳川家康の要請に応えて援軍を準備していた。10月初句には待機状態にはいったが、11月に講和となり、派兵は取りやめになった。








1.6月より佐々成政は前田利家の次男を養子に迎えようとすることで前田氏を欺こうとしたとあるが、いかにも軍記が好みそうな話なので注にとどめる。
2.「末森記」。本文の兵数はすべて末森記にもとづく。
3.「末森記」



参考
岩沢愿彦『前田利家』
「末森記」(『前田利家・利長軍記』)
市村高男『東国の戦国合戦』
齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』