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ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2012.11.04 (日)
1915年8月13日14:30
迫撃砲尾根より第57、72連隊本部および機関銃中隊へ

われらが連隊指揮官Avniベイは、本部への榴弾直撃により戦死した。不信心なる敵が受けるべき報復に対する覚悟をわれわれが貫徹するために、本官はすべての戦友が職務中でのいっそうの熱意と用心深さを示すことを望む。

第57連隊長Murat大尉


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ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2011.07.25 (月)
1914年8月14日付、第2砲兵旅団内の諸連隊の弾薬状況

第3連隊
 240/35 coastal 7門 518発所有
 355/35 coastal 3 172
 210/6.4 mortar 6 193
 Heavy coastal 19 1739
 Light 25 3386
第4連隊
 240/35 coastal 6 474
 355/35 coastal 2 117
 210/6.4 mortar 8 308
 Heavy coastal 23 2895
 Light 22 4403
第5連隊
 240/35 coastal 4 456
 Heavy coastal 13 1223
 Light 6 2635 
Fortress Command
 Depot magazines 5616

ノート
3.Depot magazinesの弾薬の種類は明示されていない。
 



1915年2月26日、砲兵兵器状況

第8連隊
 150/108 howitzer 32門 7627発所有
 210/6.4 mortar 10 602
第3連隊
 150/40 ship 5 462
 Smaller guns 18 2076
第4連隊
 150/45 ship 12 147
 150/26 fixed 6 969
 210/6.4 mortar 4 20
 Smaller guns 18 6737

ノート
1.120/11.6 howitzerの弾薬はこの報告に含まれない。
2.1914年8月14日付弾薬報告にあったものはこの報告にない。




弾薬消費:チャナッカレ要塞指揮官の報告、1915年3月18日

第8連隊
 150/10.8 howitzer 1602発消費
 210/6.4 mortar 17
 120/30 howitzer 142
 120/11.6 howitzer 59
第3連隊
 355/35 coastal 15
 240/35 coastal 60
 150/40 ship 115
第4連隊
 240/35 coastal 126
 150/45 ship 114

総計
 2250発




・2月19日から3月中旬までの作戦で、オスマン軍は砲兵弾薬4700発を消費。
・射撃の大部分は、ダーダネルス入り口の第5重砲兵連隊の火砲と第8重砲兵連隊のhowitzer zoneに集中している。
・該連隊において、2月26日343発、3月4日292発、同5日347発、同7日714発、同9日51発、同10日1882発、同11日41発、同12日41発、同13日974発消費。
・オスマン軍の弾薬消費の大部分はhowitzerおよびheavy mortarによるindirect shells。
ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2011.03.12 (土)
(1915年4月25日、英軍上陸初日、アルブルヌ)

遠くより大砲の音が聞こえる。第27連隊長セフィク・ベイはカバテペ通信所を呼び、敵軍上陸の報を伝えられた。

上陸正面、第27連隊の第2大隊は烈しい攻撃にさらされた。若干20歳の予備将校Mucip・ベイは予備の第5中隊の次席だが、中隊長の負傷によっていまや中隊は彼が指揮していた。ふと傍らの大隊長ハリスを見た。左肩のほうから血が流れ出し、カーキジャケットが赤く染まり指に血が垂れている。
「大尉殿、負傷しております」
「今じゃないさ…ここへ移動途中たまたまやられた」
ハリス大隊長は指揮し続けることに固執したが、Mucipの説得によって後方へと下げられた。後退はするなとの最後の命令をのこして。しかし後退は免れなかった。Mucipの中隊164名のうち、129名が死傷していたのだ。だが、救援の第27、57連隊もまた目前まで迫ってきていた。

※Haluk Oral『Gallipoli 1915 Through Turkish Eyes』では、ハリスは第3大隊長、Mucipは第4中隊所属となっている。Ericksonでは、ハリスは第2大隊長である。Ericksonに従うと、第2大隊は5,6,7,8中隊からなるので第4中隊はいない。『Gallipoli 1915 Through Turkish Eyes』,pp.306-7より推測してMucipは予備の第5中隊員とする。
ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2011.03.09 (水)
ツイッターでつぶやいてたら勢いに乗って書きすぎた分をこっちにも載せます。



トルコ語からの翻訳ということで、HALUK OKAL『Gallipoli 1915: Through Turkish eyes』を衝動的に買ってしまった。思ったよりもでっかくて絵とか写真とか多い。アリブルヌ(アンザック湾)戦場しか扱っていないがまあ、いいか。



「決戦を企図する場合の防御にありては、通常予想する各渡河点に所要の警戒部隊を配置し、主力はただちに攻勢を取り得る態勢にあらしめ……敵の半渡に乗じて攻勢に転じ、これを撃滅するものとす」
『作戦要務令』二の三五五

「古来、河川の決戦防御において成功の戦例稀有なる原因は、一に敵情捜索の不十分にして攻勢の時期を失したることに存する。けだし、河を隔てて敵情不明なる点多く、しかも攻者は専心防御の意表に出んとするからである」
『名将の軍略』,p.113

ガリポリ上陸作戦におけるオスマン軍対上陸防御の根本骨子は以下の通り、「敵の上陸半渡において、これを撃滅する。このため沿岸貼り付け部隊と機動部隊とに部隊を分かつ。機動部隊は沿岸より数キロの地点に位置する。敵上陸せば貼り付け部隊がこれを拒止し、機動部隊が急行して敵を海へ追い落とす」。



ある歴史家は悲嘆している、「英語圏では、第1次大戦のほかのどの戦役よりもガリポリに関する本が多い」。西側視点では、連合軍指揮官のミスに焦点を当てる。1915年3月で海軍は勝利したかもしれないし、8月攻勢には最後の勝利の可能性があったと。

実際には、海軍攻撃で砲弾はまったく尽きていなかったし、8月攻勢でも主攻を担当したアンザックの攻撃は早くからとん挫していた。上陸がサロスではなくスヴラであることをすぐに察知したザンデルスは自らの誤りを認め、サロスの兵を速やかに南下させた。

欧州大戦勃発前よりガリポリには精鋭が配置されていた。ガリポリ半島担当の第3軍団は、バルカン戦争で頑強に戦った勇猛兵団である。1914年8月の動員時には戦闘経験者が優先的にガリポリに配属された。動員22日には第3軍団は兵3万、動物7千を数えた。第3軍団長エサト・パシャはバルカン戦争でヤニヤ軍団長を務め、ギリシャのヨアニア要塞戦で現代陣地戦を体験していた(ヤニヤのギリシャ読みはヨアニアとなる)。半島先端担当の第9師団長はバルカン戦争で第5猟兵連隊長だったハリル・サミ大佐、中部の第19師団長はバルカン戦争でガリポリ軍作戦課長だったムスタファ・ケマル中佐が当てられた。

対上陸防御計画は基本的にはバルカン戦争時の対ギリシャ軍上陸防御計画が踏襲され、陣地構築もザンデルスが来る前から為されていた。11月8日からは、戦闘計画のリハーサルと対上陸作戦訓練、諸兵科連合訓練も導入された。1915年3月26日、独リーマン・フォン・ザンデルス将軍が第5軍司令官としてガリポリ半島に到着。彼の回想録によれば、「オスマン軍の配置は奇妙に海岸線に分散配置されており、また敵の強力な攻撃を止めることができる予備隊が不足していた」と非難している。実際には、ザンデルスが来る前からよく準備されていた。優秀な連絡網、綿密な歩砲協同、ドイツ式ドクトリンに対し、イギリス軍は暴虎馮河の勇を存分に発揮した。

ガリポリ戦役が終盤に近付いてきたときに米ウィリアム大尉がアメリカに送った報告によれば、ウィリアム大尉がオスマン軍人と議論した連合軍上陸作戦失敗の原因が記されている。
 1.異なる地点での少なすぎる兵力の使用
 2.イギリス将校の質が低い
そして「それらの将校は勇敢であるが経験がない、戦闘において兵をどう指揮するのかどう導くのか知らなかったように見える」とオスマン将校すべてが同意した。

1913年10月、英ヘンリー・ウィルソン大佐はオスマン軍についてこう述べている、「トルコ軍は真の現代的軍隊ではない……指揮劣悪、将校の素質悪く、ぼろを着ている」。イギリス軍はウィルソンと同じ見解を変えなかった。オスマン軍はバルカン戦争の苦い経験から軍制改革をして戦闘効率(combat effectiveness)が大幅に上昇していたにもかかわらず!

ガリポリ戦後も英軍は大部隊による戦いではオスマン軍に負け続ける。1915年セルマン・パク会戦(クテシフォンの戦い)、1916年クッテルアマラ包囲戦、1917年第1次ガザ戦、同年第2次ガザ戦…これが是正されるのは1917年夏、さー・えどもんど・あれんびい将軍が赴任してからのこと。



『名将の軍略』
Ottoman Army Effectiveness in World War 1

ミリタリー | 趣味・実用 | ガリポリ 2011.02.14 (月)
病気による後送者を含むイギリス軍の損害の総計は20万5千に昇る。戦死、行方不明、負傷合わせて11万5千。病気による後送9万。フランス軍の損害は4万7千。オスマン軍の損害は、公式記録によると25万1千。別ソースによると、35万に昇る。

英公刊戦史『ガリポリにおける作戦』,p.484



英国は本戦役間を通じ約400万の兵を用い、仏軍はその数明確ならざるも約2コ師団に昇り、土軍の参加総兵力は80万と称せられ、英軍の死傷合計12万、うち死者31,389人、失踪者9700名(主として死亡と認む)、傷者78,749人なり。仏軍の損害は明らかならず。土軍の死傷は20万8千に達し、うち死者6万6千なり。土軍のある連隊のごときは、死者5千に達したるものありしという。

『ガリポリに於ける上陸作戦』,p.309



左から順に戦死、負傷、捕虜

イギリス 18,800 46,700 7,500
フランス 合わせて27,000
オーストラリア 8,100 17,900 ?
ニュージーランド 2,700 4,650 ?
インド 1,360 3,420 110
オスマン 86,700 164,600

『第1次大戦データブック』,p.270



ガリポリ戦役におけるオスマン軍の損害

戦死 56,740
負傷 97,132
行方不明 11,178
病院での死 18,746
天候関連(Weather Related) 8,306
計 190,241

『ガリポリ:オスマンの戦役』,p.199
(ソースがトルコ語書名で記されている。おそらくトルコ参謀本部編『チャナッカレ戦役』)



オスマンの会戦損害

ガリポリ1915/16(防勢)
戦死 56,643
負傷 97,007
行方不明 11,178

『死の命令:第1次大戦におけるオスマン軍史』,付F.オスマンの損害



数字が変動しすぎてアレだけど、おそらく両軍とも20万前後の損害。
よくもまあ、死んだことよ。

「虎はもって皮を遺し、人はもって名を遺す」



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