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(ヴェルダンでの)縦深防御に対する仕事の大半は、攻撃する歩兵の仕事であり続けた。分散防御戦術に対抗して、攻撃戦術も分散化しなければならなかった。分散化のさらに進化した一面は、フランス側が「浸透」と呼んだものだった。ドイツ側はこの散兵線の崩壊についてなんの名前もつけていない。

Rohr突撃大隊と同じように4コ猟兵大隊も改編された。しかしルーマニア戦役勃発のため、3コはルーマニアに派遣され、第3猟兵大隊のみが改編された。Rohr以外にも、独自に師団・連隊内に突撃部隊を選抜する兵団もあった。ポピュラーな名前で、突撃中隊、突撃隊。突撃学校、訓練部隊、襲撃隊。

Rohrの後援者にヴィルヘルムがいた。そしてさらに強力な支援者をえた。二年間を東部戦線で過ごしたルーデンドルフである。Rohrの演習を見ていたく感心し、西方での大機動を復活させるよい手段だと考えた。軍毎にRohrの戦術を学ばせるよう士官下士官を送るよう命じた。

1916年12月、ドイツ軍は1906年版歩兵操典に変わる徒歩部隊戦闘訓練教令を発布した。密集隊形は過去のものとなった。新兵訓練所と実戦のちがいがこれで解消された。Rohr隊の訓練もこれで幾分楽になった。軍レベルで突撃部隊が編成されるようになった。

突撃部隊構想はドイツ特有のものではない。1917年1月フランス軍は突撃隊を組織した。同年8月、ロシア軍は衝撃部隊を師団毎に組織した。イタリア軍もアルディーティが逐次拡張された。オーストリア軍では、1916年11月よりドイツ式部隊が導入されるようになった。

しかしこれらの突撃隊の、一般部隊に対する効果は少ない。フランス突撃隊は塹壕襲撃を実施していたが、一般歩兵は砲撃に頼った。イタリアはフランスドクトリンのコピーで、アルディーティの戦訓を無視した。

1917年カンブレーの反撃でドイツ突撃隊が投入されて大成功を収めた。最高統帥部は新戦術が西部戦線でも通用することに自信を強めた。しかしドイツ兵はイギリス軍が置き残した物資に目がくらみ、食糧をムシャムシャ食って進撃を遅らせていたりする。

平和攻勢が終わったあとでも、ドイツ歩兵戦術の発展は止まなかった。各中隊は50名より少なく軽機6挺以上を有し、大隊は200名より少なく重機12挺を有した。ベルグマン短機関銃の導入は近接戦闘に利した。



イギリス軍攻撃法については、いろいろ科学的に説明しているものがある。その内に英軍某大尉の称する急流戦法というのが、現代の滲入戦法の要領を具体的に示しているのみならず、英軍の攻撃方法の主義が明瞭であるから、次にこれを述べる。

急流が堤防を突破するのを見ると、堤防に生じるちいさな孔、すなわち弱点から水が入って地質の弱いところを選んで行くと同時に、孔口を浸蝕してちくじ拡大しついには突破すること左図のごとし。

owiAh.jpg


イギリス軍歩兵の攻撃法は、この要領によるというのである。すなわち、最前方の部隊は前進してまず敵と接触する。「敵の配備は全線ひとしく堅固なものではない。かならずどこかに配備の弱点がある」(小隊教練)から、第一線部隊が敵に拒止されたならば徹頭徹尾これを突破するために予備部隊(小隊ならば予備分隊)をこれに増加することなく「増援とは攻撃がもっとも進捗している部分に向けるので第一線の補充または増大に使用するのではない」(小隊教練)という主義に基づき、第一線部隊の一部の発見した弱点に向かい進むのである。

このように、水が弱点から弱点へと侵入し堤防内の諸障害をちくじ包囲して破壊していくように滲入し拡大していくのである。ゆえに、最前線の部隊は敵を破るために攻撃するというよりもむしろ弱点を発見するために攻撃し、かつ隣接部隊または後方部隊の機動を容易にさせるために攻撃するので、陣地の突破はむしろ予備隊の機動にありと言ってもよいほどである。

このような次第であるから、第一線の火力は多きを要しない。また戦闘正面も大にしてあるのであろうと想像される。

アメリカ、フランス、ドイツといえども滲入を主義とすることは前に述べたように変わりはない。しかし、予備隊の使用および第一線の兵力その他より考えて観察すると、少なからず差異がある。 

参謀本部編『戦後ニ於ケル 英、米、独、仏四国ノ歩兵戦闘の概要』(1922年)
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「戦争においては、各人の軍紀を維持し精神力と体力を極度に達せしむるを要す。とくに戦闘において、思慮に富みかつ独断専行に適するよう教育せられたる指揮官及び指揮官を失いたるときといえども、なお彼らの君主および祖国に献心して勝利を得んとする強固なる意志を現行する散兵を要求するものとす」
1906年改正ドイツ歩兵操典

「自分自身で考え行動する兵士を教育することは、一層重要である。兵士の独立不羈と名誉への意識はそのとき、将校の指揮下にないときでさえ、義務を果たすよう彼らを誘導する」 
1908年版ドイツ野外要務令



ボーア戦争のあと、ドイツ軍は分散化した散兵線を構成するようになった。しかし戦場が広くなりすぎて指揮できないとされ、旧来に戻された。日露戦争はドイツ将校に再考をもたらした。ドイツ式の日本軍の戦闘を見て縦隊戦術の好例とみなした。日本軍が初期戦闘の受け入れがたい損害に対応して、よりひろい散開隊形をとるようになったと見た将校もいた。

1906年版歩兵操典と1908年版野外要務令は、密集隊形close orderと散開隊形open orderでゆれている。地方分権的なドイツ軍は、前者後者どちらを重視するか部隊ごとに別れていた。ロンメルのいた124連隊は後者だった。

1914年の終わりには、ボーア戦術(散開隊形)がドイツ軍のなかで支配的になっていた。

1915年になり、運動戦から陣地戦に変わると、ボーア戦術にも限界があった。大なる戦果が望めないので、限定目標に対する攻撃が多用された。敵陣地を制圧するため工兵の持っていた手榴弾が大量生産されるようになった。ドイツ軍では、主に卵型とポテトマッシャーが生産された。爆発力の高いポテトマッシャーが好まれた。

トンネルを掘って爆薬を仕掛ける方法も試された。対壕も掘られた。対壕は死傷者を減らした。しかしこれらは時間がかかるため、奇襲効果が失われた。

ガス攻撃はもっとも衝撃的な方法だったかもしれない。1915/04/22イープルでガス放射が行われた。守備していたフランス兵は戦わずして敗走し、ドイツ軍はゆうゆうと目標である高地を占領できた。連合軍は早急に対応してガスマスクを配布した。驚異的な効果は失われたが、戦術レベルでは有効だったのでその後も使われ続けた。ガス放射(砲弾ではない)も準備に時間がかかるため奇襲効果が失われた。陣地線を突破して敵線後方に進出するには、もっと別の方法を探さねばならない…

装甲陣地を突破する多くの試みの最初の一つに、火炎放射器がある。旅順で火炎放射兵器を使われたのに触発されて、ドイツ軍は工兵のなかの志願者によって特別部隊を創設した。皮肉にも隊員の多くは消防士で、隊長のReddeman大尉も消防士だった。大尉は1907年より訓練の指揮を始めた。

火炎放射器は大小二つ作られ併用された。1915年1月、限定目標に対する攻撃で実戦投入された。火炎放射器は敵兵に恐怖を与えた。攻撃は成功し、部隊は拡充されることになった。第三近衛工兵大隊は最高統帥部直轄のままだったが、ほかに火炎放射小隊や班が軍に付されて攻勢に使われた。

Max Bauer中佐は攻撃する歩兵に大砲を同行させることを構想した。ちょうどクルップの37ミリ砲が開発されていた。1915/03/02、陸軍省は第八軍の軍団に工兵部隊から提供された人員で突撃隊をつくるよう命令した。実験部隊の隊長に選ばれたのはCalsow大尉である。

大砲を使った攻撃訓練が行われたが、実戦投入されたのは陣地防御だった。37ミリ砲は不適格であることを示した。発砲光で容易に発見され、フランス砲兵の目標の的になった。大尉は解任された。

(速力を維持したまま火力を維持することは、西部戦線で大問題だった。第一次大戦中にはついに解決していない。20年後、装甲部隊が成し遂げた。)

Calsow大尉の後任には、Rohr大尉がなった。Graede将軍の惜しみない支援が与えられた。機関銃小隊、トレンチモーター小隊、火炎放射小隊が付された。大尉が注目した大砲はロシアの76.2ミリ野砲だった。直接照準で陣地を制圧するのに最適とされ、任務に合うよう改造導入された。

鉄楯や胸当てなどの防弾装備も検討されたが、将来の戦争様相には適合しないと大尉は考えた。石炭バケツヘルメットのみが導入された。これは両大戦を通してドイツ兵のシンボルマークになった。

実験部隊の戦術の基本的要素は以下の通り。
1.散兵線の前進ではなく、小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変える
2.攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器を使う(機関銃、歩兵砲、塹壕砲、間接砲兵、火炎放射器)
3.手榴弾を装備した部隊で塹壕を掃除

1915/10/12、部隊は実験的に投入された。フリードリヒ大王時代、下士官は戦列の後ろで監視する役目だった。しかしいまや小隊の先頭に立って、自らの意思で行動する存在となった。



stormtroop tactics


ドイツ突撃部隊 2010.01.10 (日)
stormtroop tactics, Conclusionより


「第1次大戦に参加した他の軍隊がどうしてドイツのように革新を遂げなかったのか」という問いがある。これに対する回答でよく言われるのは、「西部戦線の連合軍は陣地戦を解決するのに技術(戦車など)を追い求め、ドイツ軍は戦術的解決(浸透戦術など)を目指した」というものである。

しかし、これが満足な回答となりえない2つの理由がある。

・ドイツの戦術的解決は多くの新兵器を取り入れたものだった
・英仏は戦術的解決も試みている(Week-long bombardment[移動弾幕射撃?]、間接機関銃火など、つまるところ「砲兵が耕し、歩兵が占領する」という考え)


よりましな質問にするなら、「ドイツは特異な方法での革新をどうして遂げたのか」になるだろう。これの答えは以下の通りになる。

・分権化(decentralization)
・自己啓発(self-education)
・戦闘工兵
・大戦前からの戦術上の議論
・利用することのできた兵器
・ドイツ軍を特徴づける個性

個性というのを具体的に上げるなら、ルーデンドルフ、ウィルヘルム王太子、ローワ大尉、ブルフミュラー大佐、そして100年もの古きに渡る猟兵の伝統になる。


上記に挙げたもののうち、分権化、自己啓発、戦闘工兵は特に強調されうる。

分権化とは、小部隊指揮官にフリーハンドの指揮権を与えることである。英仏軍は新しい状況に対して素早く対処することができなかった。教範を改定しなければ対応することができなかったからである。イタリア王国もその成立上地方分権的であり、アルディーティをつくった。しかしアルディーティの新戦術が一般歩兵部隊に伝わることはなかった。

自己啓発、ドイツ軍を分権化した要素は自己啓発的な将校団である。ドイツ軍は英仏軍のように教範があれこれ規定したものではなく、もっと観念的なものだった。「大尉は実際的に教範に縛られない。そして彼の考えに合致することを行うのを邪魔する権利は誰にもない。そのような行動が教範に存在する精神に全く反しているか、明白にただ不十分な結果を与えるものであるかを除いては」。部隊訓練に対する自由はドイツ軍に自分で改善する能力を与えた。

戦闘工兵は戦前より要塞戦の訓練をしていた。1914年時には、工兵はすでに分隊単位のチームで任務をこなしていた。しかも戦闘というものに対してロマンチックな考えなどこれっぽっちもなく、きわめて現実的な態度でこれに当たろうとした。(公式的な突撃隊は工兵から生まれた)




stormtroop tacticsが英語力がなくて全然読み終わらないので、結論部分だけまとめてみた。合っているかは知らない。

グドムンドソンは結語において、たしかに突撃隊戦術は有効であったが西部戦線での根本的な作戦的問題の解決にはならなかったと述べている。根本的な作戦的問題とは、英仏軍の鉄道と自動車隊が常により多くの新鮮な兵隊を送り込むという事実である。

「この問題を扱う方法は、次の戦争まで待たなくてはならない。1939年の初め、十分に自動化し、部分的に装甲化した装甲師団はドイツ軍に敵より速く縦横無尽に戦場を移動する方法を与えた。革新は戦車というよりも、敵の配置の隙間に素早くつけ込むことのできる機動力だった」

ここで日本陸軍参謀本部編『欧州大戦の戦術的観察』の結語を見てみる。

「これを要するに、砲兵火力の歩兵への随伴問題は陣地戦初期からの難問題であり、爾来多くの月日と悲惨な実験を重ねたが大戦間ついにその解決を見ずして残った。そしてこれを解決するための一方法として案出された戦車の出現によって、戦闘方式が根本において変化する機運に向かいあるような傾向を暗示して今日に及んでいる。すなわち砲兵火力と歩兵との協同問題は今日でもなお未解決の問題であり、おそらく将来においても解決を見ることなくして終わるであろう。間違いなく軍隊の機械化によって、これの解決が必要とされるからである。」

機械化=機動力の増加とみなすならば、2者の結論は同じと言える。4個戦車師団、少数の自動車化師団しかつくれなかったポン軍…むなしくなるなぁ
ドイツ突撃部隊 2009.11.05 (木)
ブルシロフ攻勢が浸透戦術であるという(あるいは戦術として使った)信頼できる資料が出てくればこれほど悩むことはないのにw

今さっき考えついたこと

ブルシロフ攻勢は作戦レベルにおいて多点突破であるので浸透“戦術”と勘違いするのか?

1917年ドイツ軍のリガ攻勢では、作戦レベルでは一点、というかリガを包囲するように進撃してる。

ブルシロフ攻勢での「衝撃部隊」を特筆すべきというのなら、ドイツ軍はすでに突撃隊を公式的にも非公式的にも編成している。イタリア軍でもそのような部隊が編成されていた。

戦略・作戦・戦術の区別がごっちゃになってるのか?


日本で作戦術は普及してないのが残念。



某サイトを全面的に信用したらだめなのに、入手しやすく読みやすい本がないからみんな騙されるw

パレスチナのところなんか、題名から間違ってる。戦線frontじゃなくて、作戦(あるいはキャンペーン)campaignでしょうに。しかも「パレスチナ戦線」の内容は???な感じで、「意見」だけでなく、「事実」さえこれでもかと間違ってる。英語ほんとに読めるのか疑いたくなる(人のこと言えたもんじゃないけど)。ケマルに指揮権を委譲したときにゃあ、もう戦争ほとんど終わる寸前だよw(いや終わったあとか?)

まあ、マイナーな中東戦線はいいとして、他にも…ああ…ブルース・グドムンドソンの本はそんなに新しい本じゃないのに、読んでないんだろうか…読んでないんだろうな…
ドイツ突撃部隊 2009.10.28 (水)
それらの協同の困難性により、移動弾幕射撃(rolling barrageはおそらく移動弾幕射のことだと思う)は、ソアッソンやゴルリッツ・タルノフでの固定弾幕射が915年のドイツ歩兵のために行われたのより、1916年のドイツ歩兵の行動を予期されることができなかった。縦深陣地の突破戦闘の大部分は攻撃する歩兵の仕事そのままとして残っていた。そして分散化された防御戦術に対抗するために、彼らは彼ら自身の分散化された攻撃戦術を促進しなければならなかった。
分散化のさらなる進展のある側面はフランス人が「浸透」と呼ぶものとなった。
Stormtroop Tactics: Innovation in the Germany Army1914-1918.p.66

先陣を切るドイツ歩兵の攻撃は火砲1600門に支援された。この空前の砲兵集中によってもたらされた荒廃は驚くべきものだった。しかし思いもよらぬ方法で、フランス防御の強化をさせてしまった。フランス歩兵は、潜るのにふさわしい塹壕はただ単にドイツ射手の明確な目標を提供するだけであると学んだ。ヴェルダンの月明かりの戦場において、防者は漏斗口(砲弾によるボコボコ穴)で、錯綜した森林の残骸の即席陣地で、荒廃した村の中の防備を強化された地下室で戦い始めた。このより効果的な縦深防御に対抗するため、彼らの進展に随伴する歩兵波(戦闘波といったほうがいいのか?)の成功を信じながら、突撃隊員は彼らの側面で起こっていることなどお構いなしに押すことを試した。ドイツ砲兵は歩兵の前方に砲弾のカーテンを落とす「移動弾幕」を使用することを始めた。実戦では、弾幕はしばしばとても早く移動したが。突撃隊はフランス防御網を貫いていった(penetrate、あるいは浸透していった)ので、彼らは必然的に防御網のいくつかを迂回した。そしてこれは「浸透戦術」の起源である。
German Stormtrooper 1914-18,p47.

上はベルダン戦での話。
書いている本人は英文を読みながら、ふむふむと分からないなりに理解しようとしているが、翻訳だけ読むと、これはひどい、となる…かなw
まだイマイチつかめてないけど、ドイツ軍は「浸透戦術」と自らはいっていない。移動弾幕射撃を独仏軍ともに同時期に採用している。連合軍の言う「浸透戦術」はヴェルダン戦の最中に生じていったもの。こんな感じか。ならブルシロフ攻勢は浸透戦術と言えるか?

「ブルシロフ将軍は1916年4月南西正面軍に任命されてガリツィアでの攻勢を計画したが、これまでのロシア軍攻勢の失敗をよく分析して準備した。まずオーストリア軍を混乱させるため攻撃準備射撃は計画的に行う。つまり砲撃はランダムに小休止をませてオーストリア兵が塹壕から出られないようにする。全線でこれと同じ砲撃の方法をとって主攻撃がどこかを悟られないようにして効果的に予備隊を使うのを妨げた。それから多くの線で自軍塹壕を墺軍塹壕から50mあたりまで掘り進め、速やかに前進できるよう前線近くに予備隊が置かれた。またオーストリア軍の塹壕モデルが作られてロシア歩兵はこれによって訓練した。航空写真などによる墺軍砲兵位置の把握などもなされた。」

自分が書いたWikiPの東部戦線記事から引っ張ってきた。ドイツ軍の突撃隊戦術と似ていると言えば似ているが、この“似ている”はイタリア軍の突撃隊の用法とも似ている部分。ドイツ軍の突撃隊戦術は移動弾幕射と毒ガス弾、包囲殲滅好きなドイツ軍作戦術との合致によってなされたものであるから、これはブルシロフ攻勢の方法とは違うと今の自分は考える。
洋書の『ブルシロフ攻勢』は(小部隊?)戦術レベルまでカバーしているんだろうか。カバーしているんだったら読み比べてもいいが…アジ歴の『臨時軍事調査委員月報第四十八号 露軍砲兵戦闘法ニ関スル諸教令』からみていってもいいかも。

「独軍はベルダン戦の攻撃に固定弾幕を躍進させることにより歩兵を援護する方法を用いたが、フランス軍の発案したこの方法はさらに進化したものである。ドイツ軍の方法は、弾幕を一陣地から一陣地に一挙に躍進させるものであったが、フランス軍の移動弾幕射撃は歩兵の前進間終始その前方に射弾幕を設けるものである。」
世界大戦の戦術的観察 第2巻,p.63

旧軍参謀本部はフランス軍がはじめたものとしているがどうだろうか。

次に浸透戦術にかんすること

「浸透戦法
水が高きを避け低きに流れるがごとく、攻撃全身に当たっては敵の抵抗の強力なところは力攻するのを避け、ちょっとした間隙をもみつけてどんどん奥へ進むもので、夜間などはその可能性は大きいし、昼間も煙幕などでこれを継続しようとする。」
兵器戦術の世界史,p.299

だるくなったのでこれだけしか引用しないw

現代的な概念から言うと、

「迂回、包囲、突破は、機動方式であり、正面攻撃、背面攻撃、浸透(潜入)は、機動の一要領であると概念づけられるむきもあるが、いずれも、機動であることには変わりない。」
戦術との出逢い,p.126

「浸透は、小部隊ごと分散、潜入して敵の後方地域に集結したる後、攻撃目標を奪取しようとする攻撃である。」
戦術との出逢い,p.131

現代的なものとは突撃隊戦術は少し違うか? ただその後に全正面同時攻撃が載ってるから…いやこれは旧軍的用法か…? 定義の話は難しいなあw

第1次大戦の「浸透戦術」自体、第2次大戦の「電撃戦」のようなものだから、なんというかあいまいな感じが…



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