FC2ブログ
未分類 2037.10.08 (木)
簡易見出しです。


【本】
『天正甲申戦役 小牧長久手の戦いの軍事的観察』
『新月旗はためく下で 第1次大戦における中東戦線史』
『近世近代騎兵合同誌』(編著)



【宮崎繁三郎と第五十四師団】
第一章 ビルマ出陣
第二章 カラダン逆落とし
第三章 岡山連隊のインパール作戦
  岡山連隊のインパール作戦(1)トルブンへの前進
 岡山連隊のインパール作戦(2)アヨ作戦
 岡山連隊のインパール作戦(3)トルブン攻撃
 岡山連隊のインパール作戦(4)ニントウコンへの進撃
 岡山連隊のインパール作戦(5)ポッサンバン
 岡山連隊のインパール作戦(6)ニントウコン総攻撃
 岡山連隊のインパール作戦(7)カアイモール
 岡山連隊のインパール作戦(8)撤退
 高木俊朗の本はフィクションなのか?――高木俊朗『全滅』と岩崎大隊
第四章 インパール作戦の教訓
第五章 木庭知時の憂鬱
第六章 師団主力の激闘
第七章 木庭支隊のイラワジ会戦
第八章 ラムリー島
第九章 トーングプ
以下続く……

【戦史考】
WW1戦車ポンコツ論
1919年計画――もっとも高名な不発の計画
シャーマン戦車はパンターに劣るのか?
彼らは何故火力に抗ったのか?
第一次世界大戦における戦術とその評価の変遷

【第一次世界大戦におけるイギリス騎兵】
大突破か小突破か――ソンムにおける騎兵
ヒンデンブルク線への追撃――1916/17年冬の騎兵
線的防御から弾性防御へ――ドイツ防御思想の転換
1918年の諸兵科連合戦――アミアンの騎兵

【戦史】
ビグラクテの戦い
一の谷合戦
アルブルヌの戦い1
アルブルヌの戦い2
湊川の戦い

【戦史とは何か】
戦史に対する態度について
『名将の軍略』における日本古戦史の意義
石田保政大佐による「戦史とは何か」

【かんそー】
『帝国の「辺境」にて ―西アフリカの第1次世界大戦 1914~16―』
『孫子解説』
「クラウゼヴィツと孫子の比較研究」
『ナポレオン戦略』
魚雷の背に跨りて
『世界大戦の戦術的観察』
『大戦中のイタリヤ』
『時空旅人 2014年 11月号』
『第一次世界大戦』
『現代の軍事戦略入門』
『コマンド・カルチャー』
『20世紀における諸兵科連合戦』
『反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫』
『戦国の陣形』
●高木俊朗の本はフィクションなのか?――高木俊朗『全滅』と岩崎大隊



戦記作家、高木俊朗のインパール五部作は、インパール作戦を語るときにかならずと言っていいほど取り上げられる本である。無能な上級将校によって、無残にも打ちのめされ消えていく将兵。なぜ無謀ともいえる作戦が行われてしまったのか、なぜ名誉ある戦死もできず野垂れ死にしなければならなかったのか、そういう怒りが大きな感情をもって真に迫ってくる戦記ものである。

大きな感情をぶつけられるゆえにショックをうける者は多いが、反面「歴史を書いたのではなくただの小説」と非難する者もいる。「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」というトークイベントにおいて、広中一成氏は、


「高木俊朗氏の5部作もおもしろいですよ。最初に出た雄鶏社版『イムパール』(現在は『インパール』として文春文庫に収録)はルポルタージュと謳われてはいますが、従軍経験者たちの証言を集めただけのものに過ぎない。前半は出典もほとんど書かれていないですし、これはほぼ小説ですよね。」


と言っている。「従軍経験者の証言を集めただけ」で「出典もほとんどないから」“小説”など昭和に言えば元兵士が目の色を変えて怒鳴りこんでくると思うが、「牟田口廉也の宴会エピソード」「牟田口と桜井徳太郎の訓示」も高木の創作かのように語っている。

これについては、篤志家が反論している。

→ツヤマ「広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について

→ツヤマ「広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について)


広中一成氏は、イベントでは実証史学という言葉を連呼しているようだが前提というものがぬけ落ちている。ビルマ派遣部隊の同時代文書はすてられるか焼かれるかしてほとんどが散逸しており、オタクの遊び場と化している「アジア歴史資料センター」で検索してみても断片的にしかヒットしない。

公刊戦史である『戦史叢書 インパール作戦』の注でも、その出典は、終戦直後の収容所時代に書かれた部隊史か、将兵が復員して戦史叢書刊行までに書かれた部隊史、将校の回想が大半を占める。同時代のものなどほとんどないのだ。

日記もあるがこれもまた注意が必要である。桜井徳太郎の日記は戦後に書き足されていることが指摘されているし1、河邊正三の日記にもあとから回想が注釈として挿入されていることも好事家から指摘されている2

厳密に同時代文書から書こうとしても単なる年表にしかならない。かといって記憶とメモをもとに書かれた日本側の戦史がデタラメかといえばそうではない。ぬけ落ちてしまった部分はあるものの、英軍の記録から日本軍の行動はおおむね裏書きできる。そして人間の感情の機敏に関することは、戦闘詳報や陣中日誌ではよくわからない。回想録によって肉付けされてはじめて理解できることも多いのではないか。






まえ置きは以上として、今回は高木俊朗『全滅』(主に参照するのは文藝春秋、1987年版)の岩崎大隊に関することが事実に基づくものであるかどうか考えたい。


まず岩崎大隊についての証言者はだれかということである。広中氏は、高木の本について「証言者についてもぼかされている」というが、『全滅』をよくよく読めばわかる者もいる。文章のなかで主体的になって動き考えている人物である。顔のある役をやっていると言ってもいい。下に挙げれば、

武本清通 少尉
有元秀夫 中尉
直原治 兵長
清田正則 軍曹

である。収容所時代に書かれた「歩兵第百五十四聯隊戦史略」の逸話も挿入しているから、これを参照したことも確実である。上に挙げた人物はみな連隊史か大隊史に寄稿しており、『全滅』の内容と大筋で合致している(ただ、清田正則は、大隊史に回想の概要が記されているだけである)。

たとえば、5月20日のトルブン攻撃の武本清通の回想。


【連隊史】
大隊長は私等を待たして置いて、松木中佐の処へ報告に行き、日が暮れて帰って来られた。参謀や松木中佐から、隘路口の敵陣突破を厳命されたようで、本隊が掌握出来ないまま、興奮した口調で私に次の命令を与えられた。「只今より武本少尉は現在員(十五名)を指揮し、前方隘路口に於て本道を占領している敵を撃破して、『ニンソーコン』に向い前進せよ。大隊長は主力を指揮して、『ニンソーコン』に前進する。」私は復唱してから、敵陣地の状況を尋ねた。

「敵情は全く分らない。敵陣地はあの銃声がしている方向だ」との返事である。

私は無茶を言われるものだと思ったが、已むなく部下十五名を連れて、パーンパーンといふ銃声を頼りになるべく低い処を選んで敵陣地西側の斜面を前進した。
(中略)
敵陣は果しなく深く、健在なのは我々三名だけである。
3


【『全滅』】
出発の時刻になって、岩崎大隊長、武本尖兵小隊長のまわりに集った兵は、十六名しかいなかった。谷口中隊長以下の主力はどこかへ行ってしまっていた。岩崎大隊長は、ひどくあせり立っていた。

慎重な武本少尉は危険なものを感じた。

「隘路口の状況がわかりませんから、偵察させてください」

「そのひまはない。早くやれ。早く」

武本少尉は自分の小隊の兵をついれ、英印軍陣地に突入した。途中で兵は傷つき、あるいは進まなくなって、鉄条網を突破したのは三名だけであった。
4



もう一つあげるならば、5月30日北ニントウコン攻撃における有元秀夫の回想


【連隊史】
“まだ早い。明るすぎる”と、私は感じた。その時、第一小隊の船津中尉が軍刀を抜いて突入した。私は、“しまった” 突撃が三十分以上早すぎると思った。船津中尉が気合のはいった号令で「突っ込め」と言ったのがはっきりと聞えた。その時まで静まり返っていた英印軍陣地は、急に激しく撃って来た。大地が振動するかのように、すさまじい音がおこった。船津中尉以下全員三十余名は再び帰らなかった。思いがけない悲惨な最期であった。5


【「歩兵第百五十四聯隊戦史略」戦場美談 故陸軍大尉 船津節】
5月25日夜「モイラン」の敵陣地左翼に斬込み、同地を確保して、大隊の攻撃を容易ならしめよとの命令を受け、将兵の意気既に敵を含んで、夕闇迫る「モイラン」に近迫して行った。やがて県道の達人船津中尉は愛刀一閃真先に敵陣に躍込み、忽ち数人を斬伏せ、更に刃向う敵の真向から斬りつけた、と、「ガチッ」と音がする。見れば敵の鉄兜を打割った瞬間、刃先三寸打折れた軍刀をぶら下げて、返血を浴びて立つ〇る小隊長――(中略)

5月29日15時頃「クリーク」を渡河して、北「ニンソーコン」に突入して行った。(中略)

敵の射撃は愈々熾烈になって来る。部下は相次で倒れて行く。攻撃頓挫かと見えた時、中尉は「前進前進」と呼号して、騒然立ち上って、敵陣目掛けて突入し様としたが、其の刹那無念一弾は中尉の胸を貫いて、血潮に光る折刀宙に舞ったと見るや「ドウ」と倒れて、再び起きず。
6


【『全滅』】
“まだ早い。まだ明るすぎる”と、有元副官は感じた。

その時、第一小隊長の船津中尉は軍刀を抜いた。切先の三分の一がなくなって、短くなっていた。モイランの戦闘の時、船津中尉は斬込みに行って軍刀を折って帰ってきた。白兵戦の激しさを示すものであった。船津中尉は鉄かぶとをあみだにかぶり、さやをひきずりながら、

「おーい、刀が折れたぞ」

と、笑っていた。この時、船津中尉の小隊は野砲三門を捕獲してきた。

その、折れた軍刀が、ニントウコン川の北岸に、はっきりと見えた。有元副官は“しまった”と、危く口走るところだった。突撃をするのは、三十分以上、早すぎると思った。しかしその時には、船津中尉は気合のはいった叫び声をあげていた。

「突っ込め!」

その時まで静まり返っていた英印軍陣地は、急に激しく撃ってきた。大地が振動するかのように、すさまじい音がまきおこった。立ち上がったのは船津中尉ひとりであった。はね飛ばされたように倒れた。小隊の全員三十名も倒された。思いがけない悲惨な失敗であった。
7


『全滅』における船津節のディティールは、「連隊戦史略」にはないものがあるので、あるいは連隊関係者(もっとも有力なのは有元秀夫)から直接話を聞いたのかもしれない。記憶をもとに再構成されているので各本でちがいがあるかもしれいないが、話の筋はおなじである。






そのちがいを比べるうえで出版年は気になるところであるが、じつは連隊史や大隊史より高木俊朗の『全滅』のほうが先なのである。


『全滅』
「サンデー毎日」での連載――1967年
単行本――1968年
文庫版――1987年


単行本と文庫版との大きなちがいは最初の章「盗まれた作戦」の10頁分が削除されている点である。英側資料が十分に参照できなかったためか、あいまいに書かれているこの章は、文庫版に際して蛇足として削除されてしまっていても、内容に大きな影響を与えるものではない。これを考えると1968年の版で『全滅』はできあがっていることになる。これと比べて歩百五十四連隊史の発行は1981年であるし、第二大隊史など1994年である。

連隊史も大隊史も出ていない状況でどうやって書いたのかというと、高木はこう述べている。


「私にとって、大きな誤算となったのは、井瀬支隊の全般をまとめた資料のなかったことである。衛藤達夫氏は戦車連隊を主として、長大な記録を書き、また、再三、宮崎県から私を来訪して、積極的に協力された。それでも支隊全般としての資料を作りだすことはできなかった。
結局、私は、戦車、岩崎、瀬古などの部隊の生き残りの人々から、直接に話を聞いた。そこから井瀬支隊の全般をまとめようとした。8


のちに出た連隊史や大隊史の証言とおなじなのは“直接話を聞いた”のだから当たり前だということになる。高木は戦時中、陸軍航空本部の映画報道班員として戦地を取材していて、インパール作戦にも同行している。そうした縁を伝っての取材も可能であったのであろう。

部隊史のなかには、先に出た本の誤りについて言及するものあるが、歩百五十四連隊史や第二大隊史には見当たらない。『全滅』と証言者がおなじなのだから指摘しようがない。






注目すべきことに、『全滅』には、連隊史にも大隊史にも載っていないエピソードがいくつもある。

「歩兵砲小隊は小隊長の井上栄少尉がかくれて出てこないので、野々上軍曹が指揮していた。9
――6月6日ポッサンバン攻撃時

「有元中尉は口伝えに撤退の命令を伝えさせた。だが、その時には、その近くの兵は、ひとりもいなくなっていた。岡部軍曹が報告する声を聞いた時に、早くも逃げ去ってしまったのだ。10
――6月6日ポッサンバン攻撃失敗時

「すでに井上少尉はかくれ、金尾少尉は姿を消し、湯浅少尉、松本主計少尉は戦死した。11
――7月以降のニントウコン防御時


立命館大学国際平和ミュージアムには高木俊朗ののこした史資料メモが寄贈されているが、インパール五部作に関する史料はほとんどない。かといって上記のような記述が創作であるとすぐに決めつけてしまうのは早計だ。

・部隊史は顕彰と慰霊を目的とするため、部隊の名誉に不都合な“怯懦のふるまい”を削除してしまうことが多い。畑欣二が編集した歩兵第百五十四連隊史などその傾向がつよい(畑自身の汚名をかくすためでもあったろう)。
・戦後まだ生きていた人たちを悪しざまに書くのは差しさわりがあった。
・遺族に悲惨な死をそのまま伝えてしまうのは憚られた。

こういったことで口を閉ざした関係者は多い。

杉江勇『郷土部隊戦記』(郷土部隊戦記刊行会、1962年)のあとがきにはこんなことが書かれてある。


「これとは別の意味で書かなかったことが二、三ある。たとえば飢えのあまり人肉を食い、または駐とん中の殺人犯人をみつけるために、女を交えた十余人を全裸にして二階から逆づりにし、白状しなかったので打ち首にした事件。あるいは一少佐が敵弾を恐れて軍司令部の撤退命令を前線に伝達せず、このため郷土部隊が無用になった陣地をいたずらに死守して全滅するなど――。
あまりに悲惨だからである――。12


ビルマ派遣部隊のなかでこうした配慮を取り払ってしまった体験記、三浦徳平『一下士官のビルマ戦記』(葦書房、1981年)は強烈である。初年兵の自殺、脱走、住民虐殺、大隊長の逃亡など衝撃的なできごとが綴られている。そして著者は「今更冷酷な隊長、自殺した兵のこと、部落民の殺戮などを書かなくてもよいではないか13」と戦友からとめられているが、あえてそのまま出版しているのだ。

高木もまたそうした配慮を取り払って書いている。だから安易に創作と言い切ってしまうことはできない。トルブンでの初日の戦闘について、連隊史では第二梯団本隊と武本小隊のどちらも突入してように書いているが、『全滅』は武本小隊しか突入していないと記述している14。連隊史に載っているトルブン戦の兵のへり方は不自然さがあるし、連隊戦史略はいかにもな軍隊作文で取り繕っているので、もしかしたら『全滅』の記述の方が正しいのかもしれない。






高木は「一部の上級将校の虚構の作文が戦史として残されるかも知れない」ことに怒り、「だからこそ、戦争の真実は、書きとめ、書き残されなければならない15」と真摯なる心情を述べている。

従軍者から直接話を聞き、証言を取捨して書きあげた。証言の選択を誤っているかもしれない、敵側資料の不足からの誤りがあるかもしれない。ただ、高木は“戦争の真実”を書こうとしていた。検証者にもその志の高さが試されているのだ。








注1 小川忠宏「ハ号作戦覚え書」『南窓 50号』68頁。
注2 kk「『インパール作戦後の牟田口廉也について』のあとがきと参考文献
注3 『歩兵第百五十四聯隊史』74,76頁。
注4 高木俊朗『全滅』64頁。
注5 『歩兵第百五十四聯隊史』90頁。
注6 「歩兵第百五十四聯隊戦史略」99頁。〇は判読不明。
注7 高木俊朗『全滅』116頁。
注8 高木俊朗『全滅』310頁。
注9 高木俊朗『全滅』135頁。
注10 高木俊朗『全滅』163頁。
注11 高木俊朗『全滅』245頁。
注12 杉江勇『郷土部隊戦記』345頁。
注13 三浦徳平『一下士官のビルマ戦記』268頁。
注14 高木俊朗『全滅』64-65頁、『歩兵第百五十四聯隊史』74-78頁。
注15 高木俊朗『全滅』311頁。




●撤退


後方のことを語るため、すこし話をもどそう。

有元秀夫中尉は、カアイモール移動の説明中に砲撃により重傷を負った。6月17日のことである。中尉は後送されたが、雨が降りしきるなか偶然にもティディムの野戦病院で安木大尉――6月6日の北ニントウコン攻撃で負傷――に出会った。

有元中尉も両足をやられて自力歩行ができない状態であったが、安木大尉のほうはもっとひどいものであった。負傷したところは化膿して膿汁にまみれ、アメーバ赤痢による下痢でどうにもならないほど衰弱していた。

これが後方である。岩崎大隊の負傷兵のほとんどはティディムか、すぐちかくのインタンギーからさがらせてもらえなかった。輸送が滞って満足な治療もうけられず、劣悪な環境でただただ死を待つばかりであった。

ある日、ティディムの野戦病院から後方にさがる車があり、これがさいごの便と思われた。有元中尉は当番兵とともに安木大尉のもとへ行って乗るよう促した。しかし安木大尉は、

「おまえ、先にさがれ。おれは様子をみてすこし良くなってからさがる」

と言って断った。有元中尉の再三の懇願にもかかわらず、大尉は首をたてにふらなかった。もはや立ち上がって乗るだけの気力もないようであった。

有元中尉は無事を祈りつつ車に乗ったが、安木大尉と会うことは二度となかった1






BRW9C305B81BCFA_000106.jpg
『岡山歩兵第一五四連隊第二大隊史』61頁より。


さがる者もいれば、もどってくる者もいる。

トルブンの戦闘でケガを負った武本清通少尉は、幸運にも、チンドウィン河をわたってイェウの病院まで後送されて治療をうけた。傷がほとんど完治した武本少尉は6月15日退院し、当番兵の日浦公典伍長と前線へもどることに決めた。

もどろうと思っても軍の補給所がわからないので、現地の市場で食料を買いこみ、自分たちだけで歩きはじめた。途中、トラックに便乗しつつ、また歩きつつ、シンに到着してここから急な山道を登った。第三ストックケート、フォートホワイト、ケネディピーク、デムロ、そしてティディムまでもどってきた。

ここには三十三師団の連絡所があった。なかにはヒゲをはやした三浦祐造参謀がいて、武本少尉が追及したことを申告すると、

「貴官は73マイル付近にいる岡本大尉のところまで前進しその指示をうけなさい」

と言われた。武本少尉には、軍人らしからぬ温厚そうな人にみえた。

73マイル地点まで進んで、(歩二百十五連隊第一大隊長)岡本勝美大尉に指示を仰ぐと、

「現在第一線では、岩崎大隊は小野軍曹以下6名となっており、しかもどこへいるかわからない。先に岩崎大隊の井上中尉がシンに後退し大隊の兵を掌握しているから、貴官はシンにいたり、井上中尉は協力して岩崎大隊を掌握しなさい」

と言われた。きた道をまたもどれというのだ。しかたない、武本少尉はシンまで引きかえすことに決めた。途中に大隊の者がいたら食料を与えて励ましたが、気力の弱っている者はどうしても動こうとしなかった。座りこんでしまった者は置いて出発したが、二度と会うことはなかった。

武本少尉がシンまでさがると、井上中尉以下60名ほどがにわか作りの小屋で暮らしていた。ドラム缶の風呂が置いてあり、十分な米もあるようで、みなのんびりとしていた。

武本少尉は戦陣のよごれをおとしてぐっすりと眠ったが、真夜中に小屋の戸をけたたましく叩く音がする。開けてみると三十三師団の伝令で、「井上中尉は部下40名をひきいてただちにデムロ付近にいたり道路作業に任ずべし。道路作業については歩二百十四連隊第一大隊2の指揮をうけるべし」というものであった。

井上中尉は「熱発したから武本行ってくれ」と言う。寝るまえまで元気だったのにおかしな話であるが、武本少尉は先任者であるのでしかたなく行くことにした。

武本少尉ひきいる40名は、8月下旬より道路作業に従事したが、体力の弱った者はすこしずつ食料の多いシンにさがらせた。9月下旬には作業員は十数名までへっていたが、食料は四十人分もらっていた。武本少尉も戦場の要領を覚えていったのだ。

ある日、第一大隊から「敵を討伐するので武本少尉は最大限の兵力をもって参加せよ」との命令がきた。三十三師団の配属部隊になってからの仕打ち――後退するときはいつも最前線に配属され、物資も不良品があると岩崎大隊に配った――を思い浮かべると、武本少尉の心にはふつふつと怒りが煮えたぎり反抗心がわいてきた。だから4名だけ連れて、あとはシンにかえすことにした。

ティディム西方、ソンピーにつくと、武本少尉は歩二百十四連隊第一大隊の本部に申告しに行った。

武本少尉以下4名が到着したことを告げるや、「なに、5名だって」と、大類大隊長と片桐大尉はおどろいたように言った。きのうまで四十人分の食料の配給をうけていたのだからおどろいたのもムリはない。大隊長は「5名しか参加しないのか」と不満そうに言ったが、どうにもならいと思ったか、「わが大隊はこれから討伐に行くから一緒に行こう」と言った。

ここで武本少尉の反抗心が爆発した。かれは「討伐には参加しない」と言って命令を拒否したのだ。

大隊長のそばにいた片桐大尉が、すぐさま怒鳴った。

「敵が出てきたというのに討伐に参加しないとは卑怯者だぞ、貴様はそれでも日本軍の将校か」

「わたしはけっしておそろしいから行かないと言っているわけではありません。つね日ごろ岩崎大隊長から『いかなる命令をされた場合でも命令の趣旨をよく飲みこんで、けっして命令の趣旨に反する行動をしてはならない』と言われています。弓師団(三十三師団)から岩崎大隊の命令は『デムロ付近において道路作業に任ずべし。道路作業については大類大隊の指示をうけるべし』というものです。このたび貴大隊からは『討伐に参加せよ』ということですが、岩崎大隊としても任務があります。勝手に他大隊の命令にしたがってわれわれがどこに行ったかわからなくなったら、大隊長に申しわけが立ちません」

と武本少尉は落ちついて返した。

武本少尉と片桐大尉は口論となったが、大類大隊長が割って入って、

「武本少尉、おまえの言うことはよくわかった。まあそう言わずにわたしが岩崎大隊長によく伝えておく。そしておまえらには特別の任務を与えるからついてきてくれ」

と諭すように言った。大隊長としては一兵でもほしい状況だったのだろう。






歩二百十四連隊の第一大隊の兵力はたった120名ほどで、武本隊もそのなかの1コ小隊として一か月間すごした。武本少尉には三十三師団の兵がいくさ馴れしているようにみえ、大いに教えられるところがあった。

10月10日、バイタルコーナー東北7キロのところにある5955高地にイギリス軍が浸透してきたので、第一大隊はこれの攻撃を命ぜられた。英軍はこの高地の頂上に鉢巻きをしたように陣地を占領していた。傾斜が急なので物をつかむように登らなくてはならない。

三十三師団の山砲小隊が援護射撃をすることとなり、10日の昼間に打ち合わせをした。歩兵は日暮れを待って前進し、11日黎明までに突撃発起点、つまり敵前100メートルまで音をたてないように進む。ここから山砲の援護射撃が手前の敵陣地に対して20発、つぎに射程を50メートル伸ばして奥の陣地に20発。さいごに発煙弾を撃つから、歩兵は山砲の射撃がはじまるとどうじに敵陣に肉薄する。そのあいだ、武本小隊は喊声をあげて敵を引きつけ、主力の岡田集成中隊は左に迂回して敵陣に突入する。武本小隊もそれにつづいて右から突入する、という手筈であった。

10日の日暮れから攻撃部隊は行動を開始。一晩がかりで突撃発起点について、山砲の射撃をいまかいまかと待った。定刻になると射撃がはじまったが、攻撃部隊の手前に砲弾落ちてきたからたまらない。延伸するまえににげないと味方にやられてしまう。

武本少尉のそばにいた岡田中尉は「武本、これはダメだ。さがろう」と言って、全員横にそれて大隊本部まで後退した。山砲の砲身が摩耗していたのであろう。こうして11日の攻撃は失敗した。

砲兵支援が失敗したら攻撃をやめてしまったことは興味ぶかい。これはおそらく、前二回の夜襲が失敗していたためだ3


12日4も同様の手筈でやることになった。今度は山砲もうまく射撃してくれたので予定どおり突撃を開始できた。

武本小隊が喊声をあげながら進むと、敵陣からは「ジャパン、とつげき」とかけ声が聞こえてきて猛烈な射撃を浴びせてきた。敵前30メートル。突入すべく武本少尉は軍刀を抜いたが、だれもついてきていなかった。ボサのかげに隠れているのだ。少尉が「みんなはやくこい」と大声をあげたとたん右肩を撃ち抜かれてたおれた。

攻撃は失敗し、武本少尉は二度目の後送となった。


武本少尉はカレワの病院に送られた。そして、それからさらに後方の曙村まで自力歩行で移動することになった。本道を歩いているとむこうから馬に乗ったえらそうな将校が近づいていくる。武本少尉が立ち止まって敬礼すると、その将校はじろりと見て言った。

「貴様は何部隊の将校か」

「岩崎大隊です」

「おれは第三十三師団長の田中だが岩崎部隊はよくやってくれた。ご苦労だった。どこで負傷したのか」

「ティディム南の5955高地です」

「いまおれが載ってきた車がそこにあるからそれに乗って曙村の病院までさがれ」

またも幸運にめぐまれた武本少尉はトラックに乗せてもらうことができた。何度もストップをかけられ、ほかの用途に使用されようとしても、運転兵が「この車は師団長閣下の命令で曙村の病院に行かねばならないのですからダメです」と突っぱねてくれた。

これに引きかえ、安(五十三師団)の兵隊は悲惨であった。武本少尉の目の前で、動けなくなっている安の兵隊が三十三師団のトラックに乗せてもらえるよう懇願していたが、

「おまえは安の兵隊だろう。安の兵はダメだ」

と、断られていたという5

訓練未熟で、塹壕を掘るスコップもないまま前線に送られて惨敗した安の兵は、他部隊の兵隊から軽蔑されていた。






武本少尉がいなくなったあとも岩崎大隊は撤退援護として最前線でこき使われた。11月19日付にて三十三師団長田中中将より岩崎大隊のインパール作戦の功績をたたえる賞詞が授与されているが、このとき部隊にのこっていたのは十数名にすぎなかった。

11月27日、カレワにつくと岩崎大隊はやっと配属をとかれて原隊復帰を命ぜられた。30日、部隊はメイティラに移動。おなじ、つわもの兵団(五十四師団)の歩百二十一連隊の指揮下に入って戦力回復に努めることとなった。


インパール作戦で日本軍とたたかった英将ウィリアム・スリムは半ばあきれたかのように称賛している。

「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的ではなく本来の攻撃の目的をもって、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団のごときは史上にその例をほとんど見ないであろう。6

これは、その三十三師団に“たたかれ、弱められ、疲れはて”させられてしまった配属部隊、歩兵第百五十四連隊第二大隊(通称、岩崎大隊)の“全滅”の記録である。



【「岡山連隊のインパール作戦」の章、おわり】





注1 有元秀夫「安木大尉の思い出」『岡山歩兵第一五四連隊第二大隊史』181-182頁。
注2 武本は“笹原連隊第二大隊”や“大類大隊”と回想しているが、歩二百十五連隊の第二大隊長は、中谷謙一少佐か音田孝二大尉である。片桐(栄)大尉と岡田中尉がいることからして、歩二百十四連隊第一大隊と思われる。武本清通「負傷―後送―追及―負傷―後送」『岡山歩兵第一五四連隊第二大隊史』123頁、『歩兵第二一五聯隊戦記』364頁、『歩兵第二百十四聯隊戦記』828頁。
注3 Reconquest of Burma, Vol.2, 93-94. 
注4 武本は15日のこととして回想しているが、印パ公刊戦史によれば、5955高地を守る第3/2パンジャブ大隊に対し日本兵90名が砲兵支援つきの攻撃をしかけてきたのは12日のことだとしている。5955高地をめぐるたたかいは日本側の記憶からぬけ落ちてしまっているし、歩二百十四連隊戦記は武本小隊がいたことすら記述していない。だが、武本少尉の回想の正しさは、イギリス軍の記録が証明してくれるのだ。武本清通「負傷―後送―追及―負傷―後送」『岡山歩兵第一五四連隊第二大隊史』126頁、Reconquest of Burma, Vol.2, 94.
注5 武本清通「負傷―後送―追及―負傷―後送」『岡山歩兵第一五四連隊第二大隊史』129頁、佐藤峰夫編『武本清通中尉遺稿集』19頁。
注6 白鳥一郎抄訳、ウィリアム・スリム『敗北から勝利へ』140頁。