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未分類 2037.10.08 (木)
ブログが雑多に過ぎるので、山猫さんに倣い案内板を設置。適当にピックアップ。



通販
0001.jpg
『新月旗はためく下で 第1次大戦における中東戦線史』



一発ネタ
シャーマン戦車はパンターに劣るのか?

火力に逆らう騎兵たち――第一次世界大戦におけるイギリス陸軍の挑戦――
三つの突撃と騎兵の将来――バラクラヴァの騎兵
マルヌの騎兵
ルースの騎兵
大突破か小突破か――ソンムにおける騎兵
ヒンデンブルク線への追撃――1916/17年冬の騎兵
線的防御から弾性防御へ――ドイツ防御思想の転換
アラスの騎兵
イギリス騎兵最大の挑戦――カンブレーの騎兵
1918年の諸兵科連合戦――アミアンの騎兵
百日攻勢の騎兵
最後の大突破――パレスチナの騎兵

中東戦線史
オスマン軍の戦争計画
集中
サルカミシュ会戦
スエズ運河攻撃作戦
第5派遣隊
第1派遣隊
第1次ペルシャ遠征
メソポタミアにおける戦争の始まり
メソポタミア初期作戦
メソポタミア初期作戦2
ガリポリ上陸作戦
8月攻勢
ワン湖付近の戦い
アルメニア人虐殺
アルメニア人虐殺2
キョプリュキョイの戦い
1916年初頭カフカース
エルズルム要塞
第2軍、東方へ
決戦の夏
決戦の夏2
敗北のあとで
セルマン・パク会戦
クート包囲戦
第2次ペルシャ遠征
第2次スエズ遠征
第1次ガザ戦
第2次ガザ戦
アレンビー将軍
第2次クート会戦
第2次ペルシャ遠征2
電撃軍集団
電撃軍集団2
イギリス軍の攻撃計画
第3次ガザ戦
アラブ反乱
第2次ペルシャ遠征2
1918年カフカース
1918年カフカース2
1918年カフカース3
1918年カフカース4
ヨルダンの戦い
メギッド会戦
メソポタミアの最後
終戦

戦術
日本軍の教義
第1次大戦におけるドイツ軍戦術メモ1
第1次大戦におけるドイツ軍戦術メモ2
第1次大戦におけるドイツ軍戦術メモ3
浸透戦術の始まり
第1次大戦におけるロシア軍歩兵攻撃戦術
日露戦争の日本軍
彼らは何故火力に抗ったのか?

戦史
ビグラクテの戦い
第一次ガザ戦と第二次ガザ戦
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豊島河原・小清水の戦い
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『名将の軍略』における日本古戦史の意義
石田保政大佐による「戦史とは何か」

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『帝国の「辺境」にて ―西アフリカの第1次世界大戦 1914~16―』
『孫子解説』
「クラウゼヴィツと孫子の比較研究」
『ナポレオン戦略』
魚雷の背に跨りて
『世界大戦の戦術的観察』
『大戦中のイタリヤ』
『時空旅人 2014年 11月号』
『第一次世界大戦』
『現代の軍事戦略入門』
『コマンド・カルチャー』
『20世紀における諸兵科連合戦』

参考文献
ガリア戦争
第一次大戦 中東戦線
楠公戦史
中東戦線における日本語文献
陸戦術に関する本
軍事関連論文紹介
小沼参謀文書

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なぜ楠公戦史を調べるのか
楠木正成に対する私の論点
ローマ軍の行軍速度
日本軍の行軍速度
第一次大戦の数字的記録
バルカン戦争時の各国歩兵師団
トルコ軍の戦史研究
末期オスマン軍兵の軍装
第一次大戦前におけるフランス軍数線防御戦術
突撃する武士たち
「状況開始」について
チェチェン紛争メモ

小牧長久手の戦い
Chapter1
 開戦と集中
 羽黒の戦い
 紀州の策応
 長久手の戦い1
 長久手の戦い2
 長久手の戦い3
 木曽川筋の戦い
 蟹江城の戦い
 蟹江城の戦い2
Chapter2
 四国の策応 
 伊勢方面作戦
 北陸・東国の策応
 終戦
 Appendix A 用語の解
 Appendix B 長久手の戦いに至る計画
 Appendix C 「小牧陣始末記」による長久手合戦
加筆修正し『天正甲申戦役 小牧長久手の戦いの軍事的観察』と題して、2014年夏コミで販売しました。
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戦闘中の戦車が他の戦車と通信連絡の手段を欠いていることは、困ったことの一つであった。一度戦車の内部に入ってしまうと、すぐ近傍にある戦車に対しても、天井窓を開けハンカチとか円匙などを振って信号しなければならないのだが、これが実際には命がけの仕事なのである。
[フランク・ミッチェル]、陸軍技術本部訳『戦車戦』(兵用図書、1935年)82-83頁。

British_Mark_IV_Tadpole_tank.jpg



戦車と戦車の連絡
色付きの平円盤や灯りを用いた。戦車の側面に出す。白の円盤一つなら「前へ」「ついてこい」、白の円盤三つなら「集合地に集結せよ」、赤三つなら「戦車大破」など。1917年のアラス戦でこの方法は使えるとされた。
※モリナガ・ヨウ『私家版戦車入門1』(大日本絵画、2016年)57頁で、「詳細不明」と書かれている通信方法。

ただ、天候や戦場の状況で難しい時もある。とくに霧、雨、砂埃、煙幕では見えなくなる。そういうときは直接他車に車長が出向くか、伝令を出す。もっとも勇気ある指揮官は車外に出て先導する。

ロバートソン大尉はそのもっとも勇気ある指揮官の一人で、1917年の第三次イープル戦のときに徒歩で先導した。

敵の射撃は大尉の一身に集まってきた。先頭戦車の戦車長から見ると、敵弾が大尉に命中しないのが奇跡としか思えなかった。が、いよいよ道路にたどり着いて任務を達成しきった途端に、ロバートソン大尉は前額部に貫通銃創を受けてバッタリと倒れてしまった。
ミッチェル『戦車戦』139-140頁。

戦死した大尉にはヴィクトリア十字章が与えられた。


戦車と歩兵との連絡
色付き平円盤と灯かりが用いられた。赤一つなら「危険」ないし「鉄条網が切断されていない」、緑一つなら「ついてこい」ないし「鉄条網が切断されている」、赤一つと緑一つなら「待て」など。

歩兵は、“銃剣付きの小銃を頭の上に掲げて左右に振って”了解の合図を出す。基本的方法として、ヘルメットを銃剣の先につけてまっすぐ上に掲げた。危険だが、大戦を通して使われる。

この方法も他戦車との連絡と同じように不確実なので、ダメなら伝令を出した。

のちに支援すべき歩兵大隊には戦車隊の連絡要員が一人つくようになった。


戦車と司令部との通信
最初ハトが用いられた。フランク・ミッチェルはハトを置く場所がないのでエンジンの上に置いていたら半死半生になっていたと書くが、大戦を通して使われた。1917年になると、オールディス・ランプによるモールス信号が導入され、中継地を通して司令部に伝達された。

1918年アミアン戦からは飛行機による伝達も加わった。戦車の位置を空から確認して、司令部にメモを投下するのである。この方法はハトよりも明らかに早かった。


無線通信
無線通信運用は試行錯誤を重ねたが、実験的域を出なかった。無線機器が繊細で壊れやすいうえに、霧などの天候による影響もうけた。結局、車内では顔を突き合わせた原始的なコミュニケーションが一番有効(怒鳴るか、口笛を吹いて注意を引いた)。戦車と司令部との無線通信では1918年の百日攻勢で使われた続けたが頼りないものだった。

戦車自体の不能を加えた、当時の通信技術の限界は、戦場における戦車の戦術的・作戦的効率に深刻な制約を課した。

「うまい方法で十分な数を運用していれば、1918年の戦いで戦車はもっと決定的な兵器になり得たのでは」という指摘をHallは否定し、英戦車軍団の通信方法の改善の試みを考えていないとする。




Brian Hall, "The Development of Tank Communications in the British Expeditionary Force, 1916-1918."
[フランク・ミッチェル]、陸軍技術本部訳『戦車戦』兵用図書、1935年。



1919年計画――それは戦車史のなかで一度は語られる幻の計画である。

第一次世界大戦の泥沼の陣地戦のなかで戦車が誕生し、デビュー戦で失敗したけれども、どんどん拡充されていった。1917年のカンブレー戦において、イギリス軍が戦車の集団投入によって大戦果を得ることで世界をアッと言わせた。そして1918年、英戦車軍団の参謀長J.F.C.フラーは、大量の戦車を用いて戦争を一挙に終わらせることを提案した予言的な文書「1919年計画」を提出する。

ある者は「独創的なもの」であり、「夢物語」のようでもあると言う1。またある者は「1919年計画は軍事史上、もっとも高名な不発の計画である。そして、それは間違いなく最高の称賛が得られ、また、それにふさわしい価値がある2」と言う。

しかし、1990年代以降のWW1イギリス軍再評価とともに、「1919年計画」の評価も見直されている。軍事史家ポール・ハリスはこの計画を、仮想戦記(フラー自身、自嘲してそう呼んでいる3)やファンタジー小説の類だとして批判しているのだ4




●フラーの1919年計画

のちに「1919年計画」と呼ばれるようになったフラーの文書は、原題を「D型中戦車の速度と周行が作用した場合の攻撃戦術」といい、その題名のとおりD型中戦車という、当時まだ紙の上でしか存在していなかった兵器が戦場にどういう影響をもたらすのかが書かれている。

この文書によれば、“いくさ”には二通りのやり方がある。

一つには、敵の兵士を殺していくことで徐々に戦闘力を消耗させる方法
二つには、指揮系統を無効化して作戦が継続できないようにする方法

である。一つ目は、いわば、体を殴り続けることで出血死に至らしめるもので、二つ目は脳天に一撃をくらわしてノックアウトするものである。フラーが推奨するのは二つ目の方だ。

西部戦線の消耗戦は兵士たちをうんざりさせていたが、その戦場でさえ、よりスマートな戦い方ができることをフラーは目撃した。1918年3月のことである。

ドイツ軍の春季大攻勢により、攻撃の矢面に立ったイギリス第5軍は大混乱に陥った。パニックとなった司令部は数万もの兵たちを退却させた。軍司令部が後退し、それから軍団、つぎに師団、さいごに旅団…… 意思と行動の連結が失われ、意思のない行動はすべての協調を喪失した。活発に指示を送る頭脳がいなくなったとき、軍隊は単なる群衆と化したのである。

そのときフラーはこう考えた、このアイディアを合理的に解釈できるのなら、あたらしい戦術を考案することができるのではないか。比較的小規模な戦車軍によってイッソスやガウガメラのような会戦がもう一度可能となるではないかと5

そして、それを可能にするのが“戦車”と“飛行機”、とくにD型中戦車なのである。このD型中戦車は、

・最高時速32キロ
・航続距離240-320キロ
・3.9-4.2メートルの塹壕のあいだを通過可能
・一般的な道路と河川・運河の橋梁を通過できるていどの重量

の能力を有する。

この戦車でもっていかなる作戦を行うのか、フラーの主張はこうだ。


およそ150kmの攻撃正面を選択し、あからさまな攻撃準備を敵に見せ、ドイツ軍4-5個軍をこの正面に集中させる。そうすることにより、戦域を統制する軍司令部およびその指揮下の師団司令部が所在する一帯が主要な攻撃目標になろう。

(中略)ひとたび攻撃準備が成るや、敵にいかなる戦術的な予兆をも与えることもなく、D型中戦車の大群は、最高速度で、昼夜の別なく、敵の司令部が所在する地帯に向かって殺到する。

昼間にこれらの目標が見つかれば飛行機が着色煙を投下し、夜間であれば着色光および照明弾の発射によりその位置を知らせる。その距離が20マイル〔32キロ〕の範囲内であれば、D型中戦車は約2時間で敵軍司令部に到達できる。

使用できるあらゆる爆弾を敵の補給基地と交通の要点に集中する。ただし敵の通信機能は活かしておいたほうがよい。なぜならばD型中戦車と飛行機の2重攻撃が敵を面食らわせ、加えて敵自身の通信が敵の混乱をさらに助長するからだ。悪いニュースは疑心暗鬼を呼び、疑心暗鬼はパニックをもたらす。

敵が命令や命令の変更を乱発し、パニックが一気に拡大するや、慎重に準備していた戦車、乗馬歩兵、機動砲兵が敵の主力防衛部隊に対して攻撃を開始する。攻撃目標は10,000ヤード(約9km)の縦深に展開する敵砲兵陣地だ。

敵陣地突破に引き続いて追撃を敢行する。追撃部隊は使用可能なすべての中戦車および乗車歩兵だ。D型中戦車大隊が追撃部隊を先導し、あらゆる通信センターを確保して、敵軍司令部を破壊し、遭遇する敵部隊を蹴散らす。ドイツ軍西部方面総司令部の頭上に数100トンの爆弾を投下し、少なくとも司令部としての機能を無力化する。
6

※名城犬朗さんによる絵図


フラーは言う、攻撃正面150キロというのは過大かもしれない。ただ、攻撃側の視点に立てば、戦車の機動により見かけ上150キロのまま、実際には80キロに減らすことも可能だと。図に示すとこうなる。

plan1919.png
Fuller, 489より引用。


A-Hが攻撃正面の150キロ。この正面のなかでも、A-B、C-D、E-F、G-H間の計80キロにおいて、重戦車と歩兵が戦線を突破する。のこりのB-C、D-E、F-G間では敵を包囲する。もしこの包囲に際し少量のD型中戦車を協同して用いるなら、B-C、D-E、F-G間で醸成される混乱が、要点を守る防御側の抵抗を減らすために重要になる。




●構想か、空想か?

フラーの考えたシナリオについては、疑問がある。

おそらくドイツ軍の浸透戦術から着想を得たのであろう、文書には「攻撃準備が成るや、D型中戦車の大群が敵司令部に向かって突進する」とあるが、春季大攻勢のドイツ軍は“強烈な攻撃準備射撃のあとに”歩兵が突進していっていた。

攻撃準備射撃もない、協同する歩兵もいない戦車がいかなる運命をたどるかは、カンブレー戦ですでに暗示されている。フレスキエールの戦闘において、友軍の綿密な砲兵支援にもかかわらず、対戦車戦の要領を習得したドイツ砲兵によって戦車28両が一挙に撃破されているのである7。フラーは、同時期の歩兵や砲兵などの進歩についてあきらかに注意を払っていなかった。

そして攻撃正面150キロはやはり広すぎるだろう。この正面で作戦をおこなうためにD型中戦車2000両をそろえるとしてるが、楽観的に見積もりすぎている。航空機や火砲は日々の任務で使うものであり、戦闘で欠かせないものだった。対照的に、当時戦車はカンブレー戦の、しかも一日しか活躍しておらず、航空機や火砲と比べると緊急性の低いものだった。アメリカの工業力に頼ろうと思っても、1918年時点のアメリカ軍は装備を英仏から借りているるぐらいである。戦車をおいそれと生産できるわけがない。

攻撃正面を実質80キロに縮めるというアイディアも、攻撃しなかった正面の部隊から包囲翼が阻止砲火に晒されることは想像に難くない。




●現有戦車の限界

戦車の能力とD型中戦車の現実性についても、疑念がある。

フラーは戦車の革新的機動力をこのように述べている。

戦略はこれまでは道路、河川、運河の交通路に制約されたが、戦車または装軌車両のガソリン・エンジンの路外走行力は、交通路を最小限に見積もって戦域の75%にまで拡大する。8

道路外でも縦横無尽に駆け抜ける戦車を想像したのであろう。ただ、この想定はまったくの過大評価だった。20世紀の軍隊は、陸地での兵站を、鉄道と道路網にふかく依存しつづけた。この依存を軽減したのは、車両ではなく、航空機の機動力と輸送力だった。

そして、フラーの文書の重要なカギをにぎるD型中戦車は、1918年5月の段階では紙の上でしか存在していなかった。当時すでに実戦投入されていたA型中戦車“ホイペット”が、重量14トン、最高時速13.4キロ、航続距離70キロの性能だったから、もしD型中戦車が要求どおりに製造されていたら大変な戦力アップである。

しかしD型中戦車は大戦に間に合わなかった。1919年半ばに試作機が完成し、派生型も作られたが、やりたいことを盛り込みすぎて失敗作となった。この経験は次世代のヴィッカース中戦車に活かされることになる。




●高級指揮官への影響

フラーが「D型中戦車の速度と周行が作用した場合の攻撃戦術」を1918年5月24日に書き上げて2か月たったのち、イギリス参謀本部内で現実にそぐわない部分がいくらか修正されて「1919年攻勢に向けた機甲打撃軍の要件に関する覚書」と改題、配布された。

参謀総長のヘンリー・ウィルソンは、戦車信奉者の機械化戦争論にすっかり魅了されていたから、この文書もイギリス大陸派遣軍司令官ダグラス・ヘイグや連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュにも配られた。フラーによれば、これにヘイグは反応すらしないという冷淡な態度だったが、フォッシュは戦車の価値を大いに認めこれをできるだけ大々的に使わなければならないとウィルソンへの書簡のなかで述べたという9

しかしグリーンハルのフォッシュ伝によると、いささか事情が異なる。たしかにフォッシュは、戦車が「歩兵に対し道を開き、急速な進展を支援するのに欠かすことのできない」ものだと認めているし、戦車の使用を積極的に進めている。ただ、戦車を伴った80キロ以上の正面にわたる大攻勢は、多くの河川を持つフランスの国土ではムリがあると考えていた。さらに、ウィルソンの提示する戦車の予測生産数は楽観的過ぎるので、実際に戦車大攻勢が可能となるのは1919年の後半以降になると思っていた10

結局のところ、フォッシュはフラーの1919年計画を採用しなかった。彼は、幾多の戦闘により鍛え上げられた既存の部隊を使用し、1918年7月ソアソン、8月アミアンで攻勢に出て、総反攻に転じたのである。




●もう一つの1919年計画

今日では、第一次大戦における戦車運用の思想家といえばフラーが挙がるのみであるが、戦車の可能性を信じた者は彼一人ではない。たとえば、エスティエンヌ将軍はフランスにおける戦車の第一人者として当時から高名であったし、夢想家のフラーと比べると現実的な戦車運用を提言していた。イギリス軍内でも、1916年11月のマーテルによる「戦車軍」構想など、はやくから機械化戦争論に対する熱気が醸成されていた。

ステファン・フート大尉もまた機械化戦争論に魅了された一人である。彼は西部戦線で3年過ごし、第三次イープル戦とカンブレー戦では第2戦車旅団に所属していた。1918年からは陸軍省で働き、4月24日、「機動軍」と題する文書を提出した。

フラーと同じように、フートもまたドイツ軍の春季大攻勢に着想を得ている。フートは、この攻勢が頓挫してしまったのは兵站上の失敗からだと考えた。単純に言えば、ドイツ軍の補給部隊は、前進の勢いを維持するに足る機動力を持っていなかったのだと。

そこでフートが提言するのは、12コ師団からなる“機動軍”の編成である。この機動軍は、最初の突破作戦に使用するのではなくて、追撃かあるいは時機を見て集団的に投入する。

機動軍には、キャタピラー装備の貨物自動車が配備されてこれが機動軍の機動力の源となる。この貨物自動車は兵員輸送に使うのではなくて後方輸送に使用するのである。

まず、機動軍の参加しない最初の突破作戦では、カンブレー戦を拡大させたような構想でもって、新型戦車を大量に投入して戦線を突破する。それから、大量の貨物自動車により強化された機動軍は、突破作戦のあと、ホイペットのような軽戦車を先頭にして6日間100キロをばく進するのである。この進撃は、あるいは決定的なものになるかもしれない。


フートの文書は参謀本部にまで届き、「1919年の戦車運用に関する提案」と改題されて5月18日にヘイグに送られている。補給を考慮したフートの提案はフラーより現実味のあるものであったが、ただやはりヘイグは諸兵科連合による作戦こそが勝利への基礎となると考えていたから、この文書に基づく戦車生産への偏重には否定的だった11




●おわりに

第一次大戦中の戦車運用がどんなものだったのかについては以前の記事「WW1戦車ポンコツ論」に書いた。戦車は性能の限界から決戦兵器たり得ず、歩兵の支援兵器に甘んじざるを得なかった。

もし平時においてフラーの1919年計画が発表されていたら、ビジョンに満ちたものだとして軍内でもっと称賛されていたかもしれない。ただ、時は戦争、未曽有の大戦争であった。前線の兵士は“今この時この瞬間”を戦っていたのであって、次の戦争を見ていたわけではない。彼らが欲したのは次の作戦で使えるものであり、次の戦役で使えるものであった。

だからは1919年計画は「夢物語」で終わらざるを得なかったのである。




●注

注1 加登川、96頁。
注2 木本、9頁; Reid, 48.
注3 Fuller, 322.
注4 Harris, 166-171.
注5 Fuller, 321-322.
注6 木本、49-50頁。[]内は引用者。フラーの「1919年計画」の大要の翻訳は、木本寛明『機動の理論』40-55頁に載っている。
注7 Turner, 45.
注8 木本、41頁。
注9 Fuller, 340.
注10 Greenhalgh, 412-13.
注11 Harris, 166.




●参考文献

J.F.C. Fuller. Memoirs of an Unconventional Soldier. Ivor Nicholson and Watson Limited: London, 1936.






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