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簡易見出しです。


【本】
『天正甲申戦役 小牧長久手の戦いの軍事的観察』
『新月旗はためく下で 第1次大戦における中東戦線史』
『近世近代騎兵合同誌』(編著)



【宮崎繁三郎と第五十四師団】
第一章 ビルマ出陣
第二章 カラダン逆落とし
第三章 岡山連隊のインパール作戦
  岡山連隊のインパール作戦(1)トルブンへの前進
 岡山連隊のインパール作戦(2)アヨ作戦
 岡山連隊のインパール作戦(3)トルブン攻撃
 岡山連隊のインパール作戦(4)ニントウコンへの進撃
 岡山連隊のインパール作戦(5)ポッサンバン
 岡山連隊のインパール作戦(6)ニントウコン総攻撃
 岡山連隊のインパール作戦(7)カアイモール
 岡山連隊のインパール作戦(8)撤退
 高木俊朗の本はフィクションなのか?――高木俊朗『全滅』と岩崎大隊
第四章 インパール作戦の教訓
第五章 木庭知時の憂鬱
第六章 師団主力の激闘
第七章 木庭支隊のイラワジ会戦
第八章 ラムリー島
第九章 トーングプ
以下続く……

【戦史考】
WW1戦車ポンコツ論
1919年計画――もっとも高名な不発の計画
シャーマン戦車はパンターに劣るのか?
彼らは何故火力に抗ったのか?
第一次世界大戦における戦術とその評価の変遷

【第一次世界大戦におけるイギリス騎兵】
大突破か小突破か――ソンムにおける騎兵
ヒンデンブルク線への追撃――1916/17年冬の騎兵
線的防御から弾性防御へ――ドイツ防御思想の転換
1918年の諸兵科連合戦――アミアンの騎兵

【戦史】
ビグラクテの戦い
一の谷合戦
アルブルヌの戦い1
アルブルヌの戦い2
湊川の戦い

【戦史とは何か】
戦史に対する態度について
『名将の軍略』における日本古戦史の意義
石田保政大佐による「戦史とは何か」

【かんそー】
『帝国の「辺境」にて ―西アフリカの第1次世界大戦 1914~16―』
『孫子解説』
「クラウゼヴィツと孫子の比較研究」
『ナポレオン戦略』
魚雷の背に跨りて
『世界大戦の戦術的観察』
『大戦中のイタリヤ』
『時空旅人 2014年 11月号』
『第一次世界大戦』
『現代の軍事戦略入門』
『コマンド・カルチャー』
『20世紀における諸兵科連合戦』
『反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫』
『戦国の陣形』

木庭知時のカラダン作戦(3)ラマドーの反撃

⚫️ラマドーの反撃



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John Hamilton, War Bush: 81 (West African) Division in Burma 1943-1945,100頁の図をもとに作成。


木庭支隊が編成されたとき、歩百十一の第三大隊はまだアラカン山系を北上中であった。出撃命令に狂喜した第三大隊長小林武志少佐は昼夜お構いなく進んでミョーホンに到着した(注一)。

この小林少佐は木庭の訓練狂いが移ったのか、シンガポールで列車輸送の順番が来るまで数日の余裕があったときも大隊でジャングル戦の訓練をやっていた。第十八師団のシンガポール攻略でやった通りのことを体験させるという趣旨である。あとでそのことを聞いた木庭は驚いた。

二月二十五日、木庭支隊本部はテンヨウの東側に進出していた。木庭の指揮下にあるのは歩百十一の連隊本部と第三大隊(小林大隊)、歩百四十三の第二大隊(松尾大隊)、本庄大尉指揮の補充隊(本庄部隊)、騎兵五十五連隊(川島部隊)、重砲小隊である。総勢約三千名(注二)。

歩二十九の第一大隊はミョーホン近くまで空輸される予定であったが、イギリス軍機の跳梁がはげしく、直前になって中止された。陸送に変更となったため、到着まで一ヶ月以上かかることになる。ただ、木庭はこの増援のことを知らなかった。

さて、支隊の行動であるが、まずは情報収集である。木庭が作戦計画を練ろうと思っても、敵情も地形もまったくわからなかった。芦原保三副官と支隊本部の軍曹が自発的に志願し、それぞれ数名をお供につけて偵察に出発した。そばにいた軍参謀の福富少佐が「隊長はよい部下を持っておられますなあ」と言うので、木庭も鼻が高い思いだった。

芦原副官は自転車を漕いで友軍部隊と接触したのち、さらに“パゴダ高地”まで潜入して無線で報告した。これでラマドー付近の敵情と地形が判明した。さらに本部の軍曹からも報告があり、「サエタビンにはわずかな敵しかいないこと」「この部隊は逐次ラマドー方面に移動していること」がわかった。このときまでに敵一コ師団、すなわち第81西アフリカ師団が進出してきているのが判明したであろう。

木庭の肚は決まった。本庄部隊は正面を警戒し、松尾大隊がサエタビン方面へ攻撃をかける。さらに小林大隊は敵をカラダン川に圧迫せんと大回りしてサエタビン東方山系を横断、北よりラマドーを攻める。攻撃こそ日本軍の鉄則である。各部隊は二月二十六日から行動を開始した。


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大木栄一『写真報道記 ビルマ』(朝日出版社、一九四三年)より。


小林大隊は途中、道なき道を進むため、大隊砲も機関銃も弾薬もすべて人力搬送であった。この迂回部隊こそが初戦のカギをにぎるのだ。だから木庭も心配になって視察に出かけた。小林大隊のところに着くとちょうど大隊長以下の幹部が集まって昼メシを食べている途中であった。みな落ち着いているように見えた。安心した木庭が、

「成功を祈る。これがわが連隊の戦闘の門出だ」

と激励すると、小林大隊長は

「ご安心ください」

と返した。木庭は満足して支隊本部に帰った。

三月一日、松尾大隊はサエタビンを攻撃し、簡単に占領した。一方の小林大隊は無電で「サエタビン東方山系を横断して平地に進出した」という趣旨の報告を上げていたが、それ以降状況はまったくわからなかった。木庭はサエタビンに進んで西端の小さな丘に登って前方を観察していると、小林大隊長からの連絡将校が来た。

「大隊は敵の飛行場を占領し、敵を追撃しつつカラダン左岸沿いにラマドー方面に向かい進撃中。敵の兵力は千をくだらず」

「依然、追撃を続行する。小林大隊はパゴダ高地を北側より攻撃、松尾大隊は東方、すなわち正面より攻撃せしむ」

そう言い渡して木庭は連絡将校を帰した。ラマドー北方地区の敵情はまったく不明であったので、木庭はほっとした。

小林大隊のいる方角からはしだいに銃声が盛んになってきたが、松尾大隊は一向に動かない。木庭は松尾大隊に小林大隊の状況を示して前進するよう促した。

北よりラマドーへ攻めかかる小林大隊は、地元住民を先導として、ラマドーとチャウトーが一望できるパゴダ高地へと突進した(注三)。これを援護するは十五榴である。十五榴の小隊長が射撃の指揮ができないというので福留参謀みずから指揮してテンヨウ北方三里よりパゴダ高地へ射撃を開始した。

距離十キロ以上あったが、初弾から敵陣地に命中した。ゆっくりと七、八発撃っただけである。しかし、アフリカ兵は着弾の轟音に動揺したようだ(注四)。これとともに必勝の信念みなぎる小林大隊が猛攻撃をくわえたので多数のアフリカ兵が陣地をすてて逃げだした。

小林大隊の進展に合わせて木庭の支隊本部も前進したが、松尾大隊がまったく動かないので、支隊本部が敵とぶつかってしまった。彼我二百メートルでたがいに撃ち合うも、小林大隊の猛進に動揺して支隊本部前面の敵も敗走をはじめた。

三月三日の午前中には、小林大隊がパゴダ高地を占領。木庭も高地に登って辺りを眺めた。ラマドーの敵はカラダン左岸沿いに下流のほうへ敗走。川島部隊を圧迫していた敵師団主力はパゴダ高地占領のためチャウトーが脅かされ、散を乱して北へ退却中。ラマドーの敵補給基地は火を放ったのか、炎上していた。

痛快な眺めである。痛快な眺めであったが、眺めることしかできない。もしここに野砲が一門でもあったら! 野砲も連隊砲も付けてくれなかった軍司令官に、木庭は憤りを感じた。

十五榴一門は、大発のほか牽引方法がなく、また手持ちの砲弾はわずか二十発足らずである。支隊の編成には入っていなかったので福留参謀が支隊に赴任するときに伴ってきたもののようであった。

だが勝利は勝利だ。

木庭支隊は緒戦で二個アフリカ兵大隊を敗走させ、アフリカ師団を退却に追い込んだ。戦車がいない、飛行機もほとんどいない戦場で、日本軍は最後の輝きを見せた。戦車も飛行機もいないからこそ、と言ったほうがいいかもしれない。肉と肉がぶつかり合うとき、必勝の信念はたしかに偉大なる効果をもたらしたのだ。




注一 カラダン河谷の作戦の、日本側の記述は主に木庭知時「第一次カラダン作戦を顧りみて」に基づく。同様に、イギリス側は元隊員による第81西アフリカ師団史である John Hamilton, War Bush: 81 (West African) Division in Burma 1943-1945 を主に参考とした。
注二 桜井省三「第二十八軍作戦の回顧」『南窓 第五十三号』二十四頁。
注三 Hamilton, War Bush: 81 , 118.
注四 Hamilton, War Bush: 81 , 112. イギリス側は、日本軍に道案内する住民を目撃している。

木庭知時のカラダン作戦(二)木庭知時

⚫️木庭知時


木庭知時、このとき五十四歳。一八九〇年熊本生まれの自他ともに認める頑固オヤジ(もっこす)である。

若いときから健脚が自慢で、中学では家から距離があるにかかわらず歩いて通学し、親戚のところへ使いに行くときも汽車賃をもらうだけもらって歩いて山二つ三つ越えた。木庭は常々、

「わしのような者が将軍になれたのはまったくどうにかしている。わしは将軍になれるような頭はない。ただ、わしは体を動かすことをもって頭の足りんところを補う」

「世界の名将ナポレオンでさえ、陣地に着けば一日七等の馬を乗りつぶして歩哨線を見てまわった。われわれのような者は頭を使うよりも、むしろ身体を使って指導せねばならぬ」

と部下に語って第一線の陣地を見てまわり、うっかりすると前線に出てこない連隊長や大隊長が無知の恥をかかされるほどであった(注一)。

木庭が中学済々黌を卒業したころ木庭の父が死んだ。そのときちょうど陸軍士官学校に合格したので「そこが通ったならば、ほかはよかろう」と母に入らされてしまう(注二)。一九一三年、士官学校を卒業(二十五期)。広島の歩兵第十一連隊第一中隊付となり、さらに一九一六年、歩兵第七十九連隊の第九中隊付となって朝鮮に渡った。

陸軍大学校は目指さず部隊勤務に終始し、少尉五年、中尉六年を過ごした。このあいだ、初年兵教育を九回もやった。普通ならうんざりするところであろうが、木庭は三年目ぐらいからおもしろく感じてきた。軍隊はいくさをする。いくさをするなら勝たなければならぬ。勝たなければならぬのなら訓練をするしかない。そう思う木庭が猛訓練を施すので兵には嫌われた(注三)。

また、木庭は少尉のときからナポレオン・源義経・豊臣秀吉の戦法を研究していた。ビルマでは宮本武蔵の本を読んでいたという。昭和期の日本陸軍が掲げていた重要項目の一つ、「敵の意表に出てその弱点に乗ずること」についてとくに学究していたようだ(注四)。

木庭はその後、中学の配属将校を挟みながら部隊勤務を続けていく。満州事変と日中戦争にも参加。一九四〇年、第五十四師団が新設されて姫路の歩兵第百十一連隊長となったとき、大佐になっていた。ここでも訓練、訓練、また訓練である。とくに将校教育は苛烈をきわめたので「クソやかましいオヤジだ」と敬遠された(注五)。

連隊長を務めること二年七ヶ月、第五十四師団に臨時動員が下命された。

師団は最初インドネシアに派遣されることになっていて、岡山の步百五十四連隊、鳥取の步百二十一連隊らとともに各部隊は船便で別れて輸送された。步百十一連隊は三月十日広島の宇品を出航してジャワ島に上陸。スラバヤを中心とした島東部の防衛を担当した。

このジャワへの輸送の途中シンガポールで、木庭は片倉四八師団長とともに寺内元帥に申告し、夕食をともにした。会食の雑談で、歩百十一連隊が姫路の第十師団管轄であることを知った寺内元帥は「なんだ、第十師団関係か。第十師団の将兵は、弱くて弱くておれが奉天会戦のときとなり合って戦ったが、本当にダメだった」と部隊をこき下ろした。この言葉に木庭はキレた。スラバヤに着くやいなや連隊の全将兵を集めて、

「寺内元帥から姫路連隊をボロクソに言われた。その恥をそぎたい。いまから二ヶ月全員外出を禁止して訓練をやる。もちろんおれも営内にいる」

「自分は熊本の者だが、兵庫県民の悪口を聞いては郷土の連隊長としておもしろくない。よって、戦場でもし負傷して『痛い』だの『苦しい』だの言ったら死んでも戦死として扱わないし、ケガをしても負傷として取り扱わない」

と演説して一同を唖然とさせた。翌日から猛訓練のはじまりである。臨時動員で召集された将校はとくにしごかれた。不平不満もあった。しかし木庭が昼にも夜にもあらわれて演習をやるので兵も根負けして訓練にいそしんだ(注六)。

連隊のスラバヤ駐留が半年経ったころ、五十四師団はビルマに転進が決まった。西の海岸を守れというのだ。歩百十一連隊は一九四三年十月スラバヤを出発。シンガポールに上陸して鉄道でマレー半島を北上し、タイを経由してビルマに入った。ここからラングーン、プロームを経てアキャブに進んだ。五十五師団の騎兵五十五連隊とアキャブ地区の防衛を交代するのである。

一九四四年一月上旬、アキャブに着くや木庭はおどろいた。陣地はまるでなっていないし、兵はだらけきっていた。騎兵五十五連隊長川島大佐も内地気分のようであった。木庭は、川島連隊長のリーダーシップに疑問を感じるとともに、あまりのことにいままでの自分の考えややり方がよかったのかどうか自問自答したぐらいであった(注七)。

一週間後、騎兵連隊はカラダン方面に出動することとなったが、その悠々たる出陣ぶりに、見送る百十一連隊の将兵は「あれが戦場に向かう部隊か」と異口同音に言い合った。危ぶんだとおり、一ヶ月後、川島連隊はカラダン地域から追い出されてようとしていた。

二十八軍は木庭支隊を編成してカラダン方面救援を命令。

支隊長木庭知時の出陣である。



注一 前田三作『あゝビルマの戦友』七十五頁。
注二 平田皓二「最後の御講話」『南窓 第五十一号』十七頁。 
注三 平田皓二「最後の御講話」『南窓 第五十一号』十七頁。
注四 平田皓二、杉本正六、守本正「木庭知時少将」『統率の実際 2』六十六頁、「戦闘綱要編纂理由書」『偕行社記事 第六百五十五号付録』二頁。
注五 前田三作『あゝビルマの戦友』十五頁。
注六 平田皓二、杉本正六、守本正「木庭知時少将」『統率の実際 2』六十八〜六十九頁、前田三作『あゝビルマの戦友』百二十三頁、平田皓二「最後の御講話」『南窓 第五十一号』十七頁。
注七 木庭知時「第一次カラダン作戦を顧りみて」『歩兵第百十一聯隊史』百二十五頁。

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戦史・軍事史について書き散らすブログです。半年以上前の記事は現在の見解と大きく違っていたり、忘れ果てているかもしれません。

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